秘められたこと

マタイによる福音書 6章1〜4節

 イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章に書かれている「山上の説教」で、神を信じる者への祝福とその生き方を教えています。それはまず、神から私たちへの祝福を告げる言葉から始まり(5:3〜12)、その祝福が信じて受け入れた者にとって現実になるということ(5:13〜16)、さらには、与えられた福音の命が成長して、いつもどんな時も神の愛の中にあることが自覚できるようになるのだということです(5:17〜48)。

 6章1節からは具体的な行為が示されています。そしてそのように生きようとする者に与えられる豊かな慰めと励ましが、25節から34節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい……」という、あのすばらしいみ言葉なのです。

(6:1)「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」私たちは、神から身に余る救いの恵みを受け、溢れるほどの神の愛を受けて生かされています。その赦しと愛の大きさが本当に分かったならば、私たちはもう神以外の人から報いを受ける必要を感じないのです。

 神は、善き者にも悪しき者にも同じように雨を降らせ、陽を照らしてくださいますが、とりわけ悪しき者、弱き者に対して憐み深くあられるお方です。私たちはそれを十字架の愛において経験しましたし、日々そのことを体験しています。失敗して弱っている時、苦しんでいる時、神の愛が強く迫り、神の御手が支え、立ち上がらせてくださいます。神は私たちに必要なものをすべてご存知です。「空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、鳥にも花にも神の見守りと養いがあり、十分に装ってくださる。ましてあなた方、神を信じる者にそれ以上良くしてくださらないはずがあろうか。」と語られています。

 これらのみ言葉からは、キリスト者が何を後ろ盾に生きているのか、どんなにすばらしい豊かさの中で生活しているかがわかります。ですから、私たちは人から報いを得ようと頑張ったり、心を悩ます必要がないのです。究極的に本当の自由の中に生かされているからです。

(6:2)「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」当時、神殿では、たくさん献金した人はいくら捧げたかを大声で告げたり、それを知らせるためにラッパが吹き鳴らされたそうです。また当時の献金箱はラッパの形をしていたので、お金を入れると大きな音がしたそうです。イエス様はこのようにこれ見よがしに行う行為に対して、そうではなく、天の父から報いを得られるように人目につかないように行いなさいと命じているのです。(6:4)「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 キリスト者がこの世からの報いを期待しない生活ができるのは、今受けている恵みの大きさだけではなく、将来に備えられている恵みの素晴らしさによります。この世では、私たちは自分が働いた分に応じて給料や報いが与えられますが、神からの報いはそうではありません。私たちが何かをしたから得られるのではなく、神による救いというのは、私たちの思いや期待にはるかに勝る恵みなのです。

 また、神を信じる者にとって、神から来る祝福や報いほど、確かなものはありません。レプトン銅貨二枚しか持たないやもめが、そのすべてを神様に捧げたのも(マルコ12:42〜44)、自分の明日の生活を確実に支えてくださる神への信頼があったからです。神はたった一杯の水に対してもその報いをお忘れにならない方です(マタイ10:42)。キリスト者はこのような神の豊かさの中で生活しています。その中でも最上の祝福は、隠れたことを見ておられる神が、いつも一緒にいてくださるということではないでしょうか。隠れておられるということは、最も近くにいてくださるということです。

 人からの助けや力には限界があります。しかし、神はいつも信じる者と共にいて、私たちの痛みや苦しみに寄り添い、その痛みを癒し、慰め、悲しむ心に喜びを与えてくださいます。隠れたところにいて、隠れたことを見ておられる方が、いつも私と共におられることを信じて生きるなら、私たちはどんな時も希望を持って明るく生きていけます。誰に知られずとも、ただ神だけが見ていてくださり、知っていてくださる、それは大きな慰めです。「神の秘め給う所に隠れる生活」こそがキリスト者の目指すところでありましょう。イエス・キリストは目に見えませんが、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださいます。

(牧師 常廣澄子)