内なる光

マタイによる福音書6章22〜23節

 マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22〜23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

 ここには「体のともし火は目である」とあります。もし目が悪かったら、何かにぶつかったり、転んで怪我をしたりしてしまいます。私たちの目は全身の行動を守る要でもあります。ところが私たちの目は、自分の欲や世間の思惑を考えて、時には狂ってしまう危険性があるのです。目は澄んでいなくてはなりません。「澄んだ目」は、率直に真っ直ぐに物を見る目です。

 また、ここで使われている「目が澄んでいる」という言葉には、「寛大な」とか「物惜しみしない」という意味もあります。反対に「濁っている」というのは「物惜しみする。けちである」という意味が含まれています。ですから、惜しみなく与えてくださる神に対して、その恵みを受けている私たちも、惜しみなく施しなさいということを勧めているのだと考えることができます。イエス様は、惜しみなく与える心、すなわち澄んだ目を持つことが、主に従う者としての喜ばしい生活態度であって、物惜しみして欲深い心は、主の弟子にはふさわしくないことであると言っておられるのです。赦されているのに赦さない。与えられているのに与えない。施されているのに施さない。慰められているのに慰めない。このような人は、マタイによる福音書18章21〜35節に出てくる仲間を許さない男がとった行動と同じことをしているのではないでしょうか。

 私たちが持っているものはすべて、健康も時間もお金も仕事も家庭も神から託されたものです。私たちの生活は、神から与えられている物で豊かに潤っています。それらの一つひとつを感謝して受け、精一杯働かせるのが私たちの神に対する応答の生活、つまり信仰の在り方だと言えるでしょう。イエス様が教えてくださったタラントンのたとえ話(マタイによる福音書25章14〜30節)は、神が私たちに求めることをとても良く示していると思います。それは、私たちを愛して下さった神の愛に応え、与えられている物を用いて人を愛していくことです。受けるだけでなく、物惜しみしないで、与えられているものを十分働かせなさい、ということです。人は誰かに与えれば与えるほど、誰かのために働けば働くほど、喜びが増してきます。反対に、もっともっとと不足を嘆き、ただ人から求めるだけではどんなに愛されても、どんなに与えられても満足することはありません。

 信仰というのは「人を愛する心」が与えられることです。イエス様を信じた時から、イエス様はその人の内に「あなたの中にある光」として宿ってくださり、導いてくださいます。神から受けたものを働かせれば働かせるほどに何倍にも増えていきます。また私たちの身体のすべてが生き生きと動き出し、生活全体を豊かにします。全身が明るいというのは、まさにこのようなことを指して言っているのではないでしょうか。

(牧師 常廣澄子)