信じたとおりになるように

マタイによる福音書8章5〜13節

 イエスが「山上の説教」を終えられ、カファルナウムに戻られた時の出来事です。当時カファルナウムがあるガリラヤ湖周辺地域は、ヘロデ・アンティパスという領主が治めており、そこにはローマ軍が駐屯していました。その軍隊の百人隊長が、イエスが山から下りて来られるのを待っていたかのように、近づいて来て懇願したのです。(6節)「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」彼は文字通り百人ぐらいの部隊の隊長ですが、どうも権威を笠に着て威張っている人間ではないようです。自分の部下が病気になったことを心配しています。兵隊の多くは傭兵だったようですが、彼は部下を極力大事にしていたに違いありません。ともに戦場を駆け巡って忠実に働いている仲間を何とか助けてやりたいと思ったのでしょう。その思いは、彼が直接イエスの所に出向いたことでわかります。

 彼はローマ軍の兵士であり軍人ですから力がありました。そしてここは占領地ですから、ユダヤ人のイエスを自分の命令で連れて来させることもできたでしょう。ところが彼はそんなことは全く考えていません。イエスは彼の真剣な態度、支配下にあるユダヤ人イエスの前に頭を下げて自分の僕の癒しを願う姿を見て、即座に隊長の家に出向こうとされたのです。(7節)「そこでイエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう。』と言われた。」普通であれば、このように言われた場合は「有り難うございます」と言ってすぐに自宅に案内するのではないでしょうか。しかし、どうしたことか百人隊長はそれを断るのです。

 (8節)「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」この言葉には「私はユダヤ人ではないのです。神の民に属している者ではありません。」という意味が込められています。ユダヤ人はユダヤ人以外の民族を異邦人として区別し、彼らを汚れた民だと決めつけていました。もしそういう人間の家に足を踏み入れようものなら、身に穢れを受けてしまいます。そういう場合はすぐに衣服を洗い、沐浴して穢れを祓い清めなければなりませんでしたし、その日一日は誰とも接触できないことになっていたのです。さらに、もしイエスが敵国の人間の家に行き、病気を癒すとか何か親切なことをしようものなら、それを見た群衆がイエスを売国奴と罵り、イエスに向かって石を投げつけるかもしれません。この百人隊長はそういう事情を百も承知だったのです。ですから、イエスに対して「私のために苦労なさることはないのです。わざわざ我が家においでになることはありません。」と言っておいでになることを辞退したのです。

 しかし、自宅においでいただかなくても良いけれども、彼はどうしてもイエスの力を必要としていました。並行箇所ルカによる福音書7章を読みますと、この中風の僕はこの百人隊長に「重んじられている部下」だと書かれています。大事な頼りにしている部下です。何としても直してやりたいのです。ですから百人隊長は続けて言います。「(8節)ただひと言おっしゃってください。そうすれば、私の僕はいやされます。(9節)わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。』」これは「一つだけお願いがあります。私の僕を立ち上がらせてください。そのためにはお言葉をいただくだけで十分です。あなたのお言葉にはそれだけの力があります。どうぞそのお言葉を聞かせてください。」ということです。

 この百人隊長は自分の立場、自分の権威に畏れを覚えていたのではないでしょうか。それはつまりは自分の言葉に対する畏れです。権威は言葉に現われます。自分が「来い」と言えば部下は「はい」と言って従います。この命令如何で部下の命が左右されるのです。戦場で自分が発する言葉の重みを、この百人隊長はいつも考えていたに違いありません。それは言葉を替えれば、いつも部下一人ひとりの人間としての命の重さを大事に思っていたに違いないのです。ですから、自分のような人間でさえもそのように言葉をもって人を動かすことができるのだとするなら、イエスのようなお方が語られるお言葉はどんなに重く、重要な働きをするであろうか、だから、どうぞお言葉をいただきたいとお願いをしたのです。これが百人隊長の信仰でした。

 「そのように、私の口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)神の言葉は神のみこころを確実に成就する権威ある力である、というのが旧約聖書の教えでした。今、百人隊長はイエスの言葉がまさしく神の言葉と同じように、イエスの癒しの意志を確実に成し遂げるものだと信じていたのです。

 イエスはこの百人隊長が語ることを聞いて驚きました。そしてその信仰を「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とほめられたのです。ここには、今を生きる私たちが心して聞かなければならないことがあります。私たちはこの世で、会社や団体やいろんな組織に関係して生きています。そういう人が集まるところでは、実に多くの人が権威や地位を欲しがります。そして一度その権威を手に入れると、とたんに権威の上に胡坐をかいて傲慢になる人がたくさんいます。しかしこの百人隊長は自分が持っている権威や地位に対して深い畏れを抱いていたのです。彼は自分に何か資格があるとか、自分が偉いからこの地位にあるのではないことを知っていました。自分の存在を客観的にみる謙遜な態度です。人の価値は地位や財産によるのではないこと、人の存在には、何か人間以外の大きな力、神の存在があることを知っていたのです。イエスの前に来てそれが形をとっています。彼は真の権威のもとにひれ伏すことを知っていたのです。

 ここには癒しを求める中風の僕はいません。百人隊長とイエスの間に交わされている言葉のやりとりがあるだけです。しかし、神の力には時間や空間の距離は問題ではありません。ただ、神と神を信じる者との間にある密接な距離の近さ、つまり信頼関係が必要です。イエスは神の言葉の力をそんなにも素直に、素朴に、清らかな思いで信じているこの百人隊長に感動されたのです。口先だけで「神様、神様」と言っているイスラエルの人たちの間には、そのような信仰がなかったからです。イエスは、この百人隊長のような人こそ、天の国でイスラエル人の父祖と言われているアブラハムやイサクやヤコブと共に宴会の席に着く人だと言われました。

 イエスは百人隊長の願いを聞かれました。それは百人隊長の僕を思う一念がイエスを動かしたというのではありません。イエスの力を信じる強さの度合いでもありません。「何を信じているのか」という、彼の「信仰の中味」が神のみこころに正しく適っていたからです。「帰りなさい、あなたが信じたとおりになるように(13節)。」こう言ってイエスは百人隊長を送りだしました。ちょうどその時、僕の病気は癒されたのです。私たちが神につながっているためには、神の約束のみ言葉を信じ、神のみ前に謙遜に生きていくことが大切です。

(牧師 常廣澄子)