霊に燃え、主に仕える

ローマの信徒への手紙 12章9〜21節

 新型コロナウイルスによる緊急事態のため、教会に連なる多くのかたがたが、長きにわたって、自宅待機また家庭礼拝を余儀なくされております。わたしたちはこの時こそ、祈りと忍耐をもって、この困難を乗り越えて参りましょう。ローマの信徒への手紙(以下「ローマ書」と略記)12章9節~21節からのメッセージを「恵みのみ言葉」としてお届けいたします。

 信仰によって義とされた者としての、わたしたちの日々の生活そのものが“わたしたちのなすべき礼拝である”、“理に適った礼拝である”といわれます。それは、前回説教箇所、ローマ書12章1~8節に示されておりました。これは、キリスト者の実践生活の基本姿勢です。これを受けて、本日箇所、9~21節では、具体的な教えについて、十項目(十二項目ともされる)が記されておりまして、これを名付けて、「愛についての十戒」、ないしは“十二戒”と言われています。先ず初めにそれを見て参りましょう。
①「愛に偽りがあってはならない」(9節a)
②「悪を憎み、善から離れないように(9節b)
③「兄弟愛を持って互いに愛し合い」(10節a)
④「進んで互いに尊敬し合おう」(10節b)
⑤「怠らず励む」(11節a)
⑥「霊に燃えて」(11節b)
⑦「主に仕え」(11節c)
⑧「望みを抱いて喜び」(12節a)
⑨「艱難を耐え忍び」(12節b)
⑩「絶えず祈る」(12節c)
⑪「貧しい聖徒を助け」(13節a)
⑫「旅人を持てなす」(13節b)
以上、十二戒をとりあげました。

 以上は聖書の記述の順番に従ったものですが、これを内容別に、三つに区分けて説き明かすことができますので、これに従って詳しく見て参りましょう。その前に本日箇所9節~21節全体が、わたしたちに何を伝えているか、を把握してから進みたいと思います。
 全体の教え、「キリスト者の実践生活に必要な愛」が教えられているのです。9節の冒頭で「愛には偽りがあってはなりません」との書き出しにもある通りです。わたしたちが実践的生活で基本とする「愛」は、「神の愛」に基づくものであって、神がわたしたちに“そのように行いなさい”として示されたものです。ヨハネによる福音書(13:34)で、イエスさまは弟子たちの足を洗われた後「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と愛の実践を示しております。

 この教えで、イエスさまが言われた“新しい掟”とは、律法に代わる“全く新しい教え”すなわち、イエス・キリストを通して示された福音の教えです。先のヨハネ福音書では、イエスさま自ら、愛の実践を弟子たちに示され、その後、“あなたがたも互いに愛し合うように”、と見本を示されました。この教えは、共観福音書での“主の晩餐”に代わる、大切な教えなのです。
また、ローマ書の今までの箇所、5章の5節には、「わたしたちの心には聖霊を通して神の愛が注がれている。」、また、5章の8節には、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。

 この二箇所を通して、主イエスさまが身をもって示された「愛」は、正に「自己犠牲的な愛」アガペーの愛なのです。
ではお待たせしました。早速、三つにグループ分けして、詳しく見て参りましょう。

 第一のグループ:「愛の基本」についてです。先ず9節に、基本が示され、さらに詳しい内容を11節、12節に示しております。次の第二、第三のグループもすべて、このパターンです。9節にまず「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」とあります。わたしたちの日々の生活は、礼拝そのものであって、その礼拝において、最も大切にするのは「愛」であり、“真実の愛、誠の愛であること、そして悪を憎み、善に親しむように、との戒めです。
 なお、「愛」と「善」の関係について、「愛」は、わたしたちの心の内にあって、生き方の基盤をなすものであり、そして「善」は、その愛から出てくる“行い”や“考え方”のすべて、と考えることができます。そして、その愛から出てくる一つ一つの業(わざ)や考え方は、具体的な戒めとして、11節、12節に記されています。
 再度、9節、11節、12節の愛、等々について確認しますと、「愛は真実であれ、悪を憎み善から離れるな、怠らず励むこと、霊に燃え、主に仕え、そして希望をもって喜ぶこと、苦難を耐え忍び、絶えず祈りなさい。」、と教えられます。特に、現在の日本のわたしたちが直面している困難な日々の生活では、以上のことが、わたしたちに迫ってくるように思います。弱り果て、倦み、疲れるような時も、このみ言葉に励まされ押し出されていきたいと願う者です。
 ローマ書の5章2節から5節に「このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく苦難をも誇りにしています。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とあります。
 また、コリントの信徒への手紙13章4節aに「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」また、同じコリント書13章13節には「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」これは、わたしたちに特に馴染みの箇所です。

 次は第二のグループです。10節「兄弟愛を持って互いに愛し、」との書き出しで始まる、“兄弟愛”についてのグループです。そもそも、イエスさまが弟子の足を洗った後で言われた言葉、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」の、ヨハネ13章34節bのお言葉は、この“兄弟愛”の出発点となります。そして10節によって導かれる節は、13節、15節、16節です。兄弟愛、と言いますと、アメリカの都市名の「フィラデルフィア」そしてヨハネ黙示録2章~3章にも、この都市名が出て参ります。
 再度10節をみますと「兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とありますが、“兄弟愛”とは、高ぶりではなく、まず謙遜の心から始まることが示されます。10節から導かれます13節、「聖なるものたちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい。」パウロが外国伝道に励む傍らで、絶えずエルサレム教会の人々にも心を向けていたことは、パウロ書簡を通して読み取ることができます。エルサレム教会の人々は経済的に貧しく、そして彼らの援助のために、とパウロは伝道先で献金を募って、エルサレムに持参したことも聖書から示されます。
 また、“旅人をもてなす”こと、それはルカ福音書の10章、一般に“善いサマリア人”として親しんでいる箇所でもあります。ただし、この個所は、単に“旅人をもてなす”というよりも、日ごろユダヤ人からみて“敵対関係”にあったサマリアの人が、瀕死の怪我をしているユダヤ人に対し、あの手この手を尽くしてケアをした話です。これは次の第三グルーとも関連しております。
 次は15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とあります。わたしたちは数年前の、教会の「年間聖句」でもありました。ここ数年わたしたちの国は、今もそうですが、数々の災害や困難に立ち向かっております。またその渦中に身を置いております。よって、ボランテイア活動にも慣れ親しんでおります。しかし本当に、ここに示されているみ言葉のように、わたしたちは、心をそこに置き、「喜び」、「悲しみ」を共にしているかどうか、わたしたちは、否、自分がそのことを、しかと考えてみる必要があります。

 最後は第三グループです。14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とあります。そして14節によって導かれるこのグループには17節~21節が入ります。
ここは言わば、日ごろ中々思いを一つにすることができないでいる人々、強いて言うなら“敵対者への愛”です。パウロの当時、“新しいキリストの教え”を世界に宣べ伝えるためには、しばしば迫害が伴いました。パウロ自身もいやというほど体験しました。彼自身の出所であるユダヤ教の人々や、時の支配者ローマからの迫害、等々です。しかしパウロは言います、「迫害する者のために祈れ、決して呪ってはならない」と、愛の教えを説いております。

 マタイ福音書5章43節~48節(大きくはイエスさまの“山上の教え”の箇所)には、「わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも、善人にも太陽を登らせ、云々(途中略す)自分の兄弟にだけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか、──。」とあります。
 ローマ書12章に戻って17節には、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」とあります。そして18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」とあります。

 以上を通して気づかされることは、これらの教え、戒めの言葉の中に、“だれに対しても”、“心がけなさい”とか、“できれば、せめて”の言葉が目立ちます。ここは、パウロがわたしたちの心の内を見通したうえで、できればこうしなさい、せめてこうしなさい、と、“噛んで含めるように”、言っているように思います。それほどにわたしたちは日ごろ、心の内に、強さと、弱さの両面を持った人間であることを痛感させられます。ですから、パウロはその弱さを思い遣るように、わたしたちに戒めの言葉を送っております。

(牧師 永田邦夫)