わたしの霊をすべての人に

使徒言行録 2章14〜21節

 本日は聖霊降臨の記念日、ペンテコステ礼拝です。クリスマスというイエス・キリストの降誕を祝う行事は世界中の人々に知られていますが、ペンテコステはほとんどの人が知らないでいます。考えてみますとこれは非常におかしいことです。父なる神がお遣わしになった「もう一人の助け主」であられる聖霊が降臨されたことは、少なくとも教会にとっては、救い主イエス・キリストがこの世に誕生されたことに匹敵するほどの大きな出来事だからです。

 お読みしました箇所はペトロの説教の冒頭部分ですが、その前の箇所(1〜13節)に、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことが記されています。弟子たちに聖霊が降ったことが何より明らかなことは、その日、彼らが何ものも恐れることなく大胆に語り始めたことにあります。つまり聖霊が結んだ最初の実は、多くの人を前にして弟子たちが公然と主イエスを主と告白する説教を語り始めたことです。これは生きた聖霊の働きです。ここから教会の歴史が始まりました。ペンテコステは聖霊の働きによってこの地上に教会が誕生した記念日でもあります。

 この聖霊降臨の出来事は、ペンテコステ、五旬祭と呼ばれる祭りの日の出来事でした(2:1)。(ペンテコステとはギリシア語で50番目を意味する言葉で、過越し祭から数えて50日目ということです。)これは刈り入れた初穂を神に捧げる感謝の祭りです。この時、弟子たちは百二十人ほどの人々と共に集まっていたのです。彼らは五旬祭(刈り入れの祭り)だから集まっていたのかもしれませんが、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)のです。この熱心な祈りの中で、欠けてしまった弟子の一人イスカリオテのユダの代わりに使徒の補充が行われました。彼らはくじによってマティアを選びだし(1:26)、弟子十二人の数を満たして再出発していたのです。彼らがまず行っていたことは、体制を整えて心を合わせて祈ることでした。一人ひとりがバラバラではなく、神の民として心を合わせた祈りでした。そしてこの形を前もって準備されたのは、イエスご自身でした。イエスが弟子たちを選び、結び合わせ、主に従う者たちの群れとして整えていてくださったのです。

 弟子たちは祈りました。天に挙げられる時、イエスが弟子たちに言い置いていったことを弟子たちはしっかり心に留めていたのです。(1:4)「そして、彼らと食事を共にしていた時、こう命じられた『エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。』」このイエスの約束を信じて、身を整えて祈っていたことでしょう。そして実際、祈りをしている最中に、主イエスのお言葉通り聖霊が降ったのです。
 (2:2〜4)「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分れ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した。」このように不思議な恵みの奇跡が起こったのです。
 その具体的な内容が5節から13節までに詳しく書かれていますが、彼らが聖霊に満たされて、他の国の言葉で話し出したことを聞いた人々の衝撃は相当のものだったようです。「(6節)あっけにとられ」「(7節)驚き怪しんで」「(12節)驚きとまどい」などの言葉が繰り返されています。9〜10節に挙げられているのは、当時のローマ帝国の地中海沿岸の15の地域に住んでいる人たちで、それぞれ話す言葉はみな違っていました。ところが聖霊に満たされた弟子たちが「(11節)神の偉大な業」を語っているのを、それらの地域から来た人たちは自分の国の言葉で耳にしたのです。しかし、自分の知らない国の言葉を聞いても何を言っているのか分かりませんから、「(13節)あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人がいたのももっともかもしれません。

 この異様ともいえる出来事の中で、ペトロは語り始めました。(14節)「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私たちの言葉に耳を傾けてください。(15節)今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。(16節)そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』

 朝から酔っぱらっているのは、宗教的規律の厳しい当時のユダヤではあり得ないことでした。「朝の九時」というのはユダヤ人にとっては祈りの時です。それまでは食事をとりませんから、酒を飲むはずもありません。ですから「朝の九時ですから」というだけで彼らの批判に答えるのには十分でした。また、そこにはあざける人だけではなく敬虔な人もいたでしょうから、ペトロはそういう人たちにも分かるように聖霊が注がれた理由を説明していったのです。

 それは神が預言者を通して語ったことの成就だということです。17節から21節の言葉は、旧約聖書ヨエル書3章1〜5節にあるみ言葉ですが、元の文章ではなくペトロが記憶によって自由に引用したものです。預言者ヨエルは、メシヤが来ることと、イスラエルの信仰の復興について預言しました。そして信仰が復興するのは聖霊の注ぎによって起こるのだと語っています。ペトロはそのヨエルの預言が、今ここで、ここにいる我々信徒の中にはっきりと実現したのだと語っているのです。

 「(17節)神は言われる。終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」この「終わりの日」というのは、救い主イエス・キリストがもう一度来られるまでの時代を指しています。つまり今の時代です。旧約時代には神の霊が注がれるのは、特定の人だけに限られていましたが、終わりの日には、老若男女の区別なく、あらゆる階層のすべての人に神の霊が注がれるというのです。そして聖霊に満たされた人は、神のみ心に添った幻を持って、力強く神の言葉を語る者となっていくのだ、というのがここで言われていることです。さらにこの預言の中には、異常現象が起こること、天変地異が起こることが預言されています。そのような天地宇宙がその根底からゆり動かされるような混乱の中にあっても「(21節)主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と、神により頼む者、主イエスを信じるすべての者には救いがあると約束されているのです。

 この聖霊降臨という出来事は、言葉や民族や文化の違いを超えて、福音がすべての人に伝えられていくということを現わしている箇所です。ちょうど五旬祭でしたから、エルサレムにはあらゆる国から人々が集まって来ていました。それらの人々が自国の言葉で神の偉大な業を聞いたのです。これは「地の果てまで」すべての国々に福音が宣べ伝えられることの最初の出来事でした。

 この出来事が起こる前の弟子たちを考えてみましょう。弟子たちは復活のイエスにお会いしています。弟子たちはイエスが十字架で死なれた事実を知り、そのイエスがよみがえられたことも知っていました。しかしながら、その当時の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて中に閉じこもっていますし、復活されたイエスについて人々に語ることなど全く考えられない状況にいました。聖霊が降って神の力が働くという出来事があって初めて、弟子たちの信仰は本物になり、生きた信仰になっていったのです。

 私たちの信仰も同じではないでしょうか。信仰というのは、確かに私が自分で信じることですが、それは、同時に神からの賜物です。信仰を持てた喜びや感謝を感じる時、この信仰は神からの恵みであるとわかります。信じる心は神が与えたものなのです。主の霊によらなければ、誰もイエスは主であると告白することができないからです。

 また、神への信仰は信仰告白して洗礼(バプテスマ)を受けたら、もうそこで終わってしまうようなものではありません。神を信じる者は祈りを通して、絶えず神と交流しながら生かされているのです。祈りを通して神にすべてを委ねること、それが神を信じるということです。聖霊はこの祈りの霊でもあります。パウロはどう祈ったら良いかわからない私たち人間のために、聖霊ご自身が呻きをもって執り成していてくださると語っています。(ローマの信徒への手紙8:26)「同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ですから私たちは祈ることによって聖霊が注がれ、新しい力と慰めを受けて生きていくことができるのです。

 使徒言行録を読んでいきますと、聖霊降臨の出来事によって新たな命に生かされた弟子たちは、み霊なる神の導きによって、喜んで主の福音を語っていきます。弟子たちがこのように大変身したのはみ霊なる神と共に歩む生き生きした人生へと導かれたからです。

 主のみ霊がこの世に降ったペンテコステ、聖霊降臨の出来事。これは信じる者だけの特権ではありません。聖霊は信じる者だけに約束されているのではありません。聖霊は私たちだけのものではないのです。「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と神から約束されているものです。一人でも多くの方が、聖霊の働きによって、真の神を信じることができますようにと祈り願います。私たちも同じように以前は神から遠く離れていました。しかし、神の大きな愛によって心の目が開かれ、私たちのかたくなな心を打ち破ってくださったからこそ、今こうしてこの恵みの座にいるのです。主のみ霊という素晴らしい賜物によって、人はいつでも新しく生まれることができるのです。

(牧師 常廣澄子)