すべての民のための福音

ローマの信徒への手紙 15章7~13節

 ローマ書からの説教もいよいよ15章に入って参りました。そして、キリスト者の実践生活について、12章からずっと学び、そのメッセージをご一緒に聞いて参りましたが、15章はその締めくくりでもあります。なお、この個所は、1節から13節までが一つの段落ですので、そこからメッセージを聞いて参りましょう。
 早速、1節をみますと、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」さらに2節では「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」とあります。ここには“担うべき”のように、「べき」という言葉を三回も用いて、強い口調で、“キリスト者の行動指針”の言葉を発信しております。
し かもここは、「わたしたち強い者は、は云々」と、“強い者”を中心に据えてのメッセージとなっています。ところが、14章を振り返ってみますと、“信仰の強い者”あるいは“強い者”を意識しつつも、その言葉は一切用いずに、「信仰の弱い人を受け入れなさい」(14章1節)とあります。しかし大切なのは、14章のメッセージとの比較です。
 14章では、“食べ物規定”あるい“特定の月・日を尊ぶ信仰”を依然として捨てきれずにいる人を、「信仰の弱い人」として、これらを信じる人も、信じない人も、お互いに相手を批判したり、軽蔑したりしないよう、また、相手を裁くことがないように、なぜなら、どちら側の人をも、神が既に受け入れてくださっているのです。そしてその人たちも、神に感謝をささげながら、生きているのです、ということでした。さらに14章13節以降を見ますと、お互いに裁き合わないように、“躓きとなるものや、妨げとなるものを兄弟の前に置かないがいい”とまで言っております。と、ここは、“優しく、かつ寛容的な相手への思いやりの気持ちや姿勢を大切にするように”との“キリスト者に必要な、基本的倫理姿勢についてのお勧め”と理解することができます。

 ポール・トウルニエという人の著書に「強い人と弱い人」というのがあります。人は「あなたは強い人ですか、それとも弱い人ですか」と問われましたら、大抵の人は「いや、わたしは、決して強くはありません」、と答えるでしょう。それはあながち謙遜から出る言葉ではありません、といいます。わたしたちも、胸に手を当てて考えてみますと頷(うなず)けます。
 でも、今、このローマ書において題材としていることは、わたしたちは、救い主イエス・キリストを主と信じる、その信仰に基づいて考えた時に、「わたしはこのように信じます」、あるいは「信じようとしています」と強く言い切ることができます。またその信仰によって「強い者とさせていただいている」のです。

 15章の初めに戻りまして、1節、2節から、もう一度確認して参りましょう。

  1. 強くない者の弱さ、苦しみ、そしてその人が抱えている課題を一緒になって担うべきである。これは、主イエスさの生きざまが、正にその通りです。悪霊に取り憑かれた人、病を抱えて苦しんでいる人に寄り添い、その傍らでその弱さを担ってくださり、また癒しを与えてくださいました。
  2. 自分の満足を求めるのではなく、相手の人、隣人の満足することを求めていく、これは、1.の結果としても、そのように導かれていきます。ルカによる福音書10章の“善いサマリヤ人”の教えが、このことを示しております。
  3. そして、善い行いは、お互いの向上・発展にも役立ちます。

 次の3節は、詩編の言葉を引用しながら、イエス・キリストの模範を記しています。「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」後半は、詩編69編10節b、からの引用で、艱難に苦しむ人の叫び、また祈りの言葉です。主イエスさまも、周りの人々からの扇動の言葉を身に浴びながらも、十字架への道を歩まれ、そして十字架上では、「彼らをお許しください。」と、大きな赦しと、贖いの言葉を残されました。

 3節から続く4節の言葉、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」この聖句は、ローマ書5章の1節~5節を彷彿させます。
 また、“かつて書かれたこと”(旧約聖書の言葉)に因んで、同様の言葉「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それが誰を、あるいは、どの時期を指すのかを調べたのです。」と、ペトロも綴っております(ペトロの手紙一 1章10節、11節)。
 そして5節、6節の、執り成しの祈りへと移っております。ここには「忍耐と慰めの神」とありますが、神の御性質、その御業を、わたくしたちがどのように表現するか、それは“信仰告白のことば”でもあります。「御子キリストに倣って、互いに同じ思いを抱かせ、心を揃え神を讃えさせてください。」これはローマ教会の人々への願いですが。また今日の世界の人々への、わたしたちの願いであり、祈りでもあります。

 以上の願い・祈りに続いて、7節に移りますと、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」とあります。先ず始めは、“イエス・キリストは神の栄光のために、わたしたちを受け入れてくださった”、ということです。
 このことは直後に出て参りますが、神の人間に対する救いのご計画は、預言者を通してずっと言われてきたことです。神はその約束を果たすために、御子を世に送られたのです。そのイエスさまは、わたしたちを受け入れてくださり、わたしたちの罪の身代わりとして、十字架上で罪の贖いを果たしてくださったのです。その神の愛ゆえに、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」と言われます。これは極めて重く、そして大切なお勧めの言葉です(7節)。

 8節、9節です。冒頭には「わたしは言う」とあります。以下は、パウロの強い思い、願いの言葉でもあるように感じます。本書9章の1~5節には、ユダヤ人は、先に神に選ばれた民でありながら、異邦人に後れを取ってしまっている、そのことをパウロは、「わたしには大きな悩み、悲しみである」と吐露していたのが印象的です。
 8節「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、」とあります。
 父祖アブラハムに対して神は、「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:2)、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記、12:3b)と約束されましたが、その約束に立ち、その約束をさらに確実なものとするため、御子イエスさまを世に遣わされました。そのイエスさまは、ユダヤ人の中で僕として、人に仕えてくださいました。それは異邦人が神を讃える者となるためでもありました(9節a)。

 次の9節bでは、詩編18篇50節「主よ、国々の中で わたしはあなたに感謝をささげ 御名をほめ歌う」(主の僕の詩、ダビデの詩)から引用し、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と記しています。
 以下、さらに旧約聖書の、律法、詩編、さらに預言書などから幅広く引用しながら、福音はユダヤ人から始まって、すべての民へと宣べ伝えられたことを検証しながら、神への賛美の言葉へと変わっております。

  • 10節「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(申命記32章43節から)
  • 11節「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」(詩編117編1節から)
  • 12節「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」(イザヤ書11章10節から)

 最初の9節は、詩編18編からの引用で、ダビデがサウルの追ってから救い出されたときに歌ったの勝利の歌で、「その神のみ業ゆえに、わたしは異邦人の中であなたの御名をほめたたえよう」と、感謝と喜びを表しております。
また12節のイザヤ書からの引用の言葉は、皆さまもお馴染みの箇所で、救い主メシア、すなわちキリストは、ダビデの家系から出られることを明らかにしております。
 最後は賛美、そして頌栄です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」
 イエス・キリストの福音が、文字通り、「すべての民のための福音」となりますように、そして、わたしたちも、希望と喜びにあふれた祈りと賛美を、これからも続けていくことができますようにと願っています。

(牧師 永田 邦夫)