神の僕として

ペトロの手紙一 2章11〜17節

 私たちはこの礼拝に集い、イエスを信じる信仰に生きていますが、私たちがこの地上に生きている限り、家庭や職場や学校など具体的な生活の場において、さまざまな社会問題と関わらざるを得ません。そういうことは政治的領域と言っても良いかもしれません。日本の国に生きていれば、この国の政治に無関心でいるわけにはいかないのです。しかし、信仰的な話題と違って、政治に関しては個人個人の立場や考え方が異なります。教会と国家の問題は大変大切で避けて通れないものですが、その扱いは注意深くあらねばならないと思っています。

 今朝お読みした聖書箇所には、「すべて人間の立てた制度に従いなさい」とか「皇帝を敬いなさい。」とか、支配者の権力に従うよう勧めている内容が読み取れます。「(13〜14節) 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」これらの聖句はかなり強烈な表現ですから、複雑な思いを抱かれるでしょうし、反発や抵抗する心をも呼び起こすものです。いったい「皇帝を敬う」というのは、どういうことでしょうか。

 以前にも触れましたが、このペトロの手紙は、使徒ペトロがポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地、つまりエルサレムから遠く離れた異教社会にあって、イエスを信じてキリスト者となった異邦人キリスト者に宛てて書かれた手紙です。まずここは、「(11節) 愛する人たち、あなたがたに勧めます。」という言葉から始まっています。私たちがどういう生き方をしたらよいかの勧告です。続いて「(12節) また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とあります。

 ここに「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしている」と書かれていますが、紀元一世紀頃のローマ帝国においては、キリストを信じる者たちは、国の宗教を無視する悪人として非難され、迫害されていたのです。ペトロはそういうキリスト者に対して、「(11節)愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と語りかけています。信仰者は天の国を目指す旅人ですから、ただこの世だけに目的を置いて生きているのではありません。本籍は既に天にあるのです。その天の故郷に帰ることを目指して生きているのですから、いわばこの世では寄留者、仮住まいの身ではないか、と言うのです。だから「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と勧めているのです。

 今までこの手紙で見てきましたが、キリストを信じるあなたがたは、先祖伝来のむなしい生活から贖われ、暗闇の中から驚くべき光の中に招き入れられ、新しくされた人たちなのだ、だから神からの恵みが豊かに注がれて生かされていることをしっかり自覚するようにと言っているのです。しかし、キリストを信じたからと言って、世の欲が全くなくなってしまうわけではありません。人間には聖い神の霊に逆らう思いが絶えず起こります。肉の欲は私たちの信仰生活に絶えず付きまとっているのです。ただ、ここでの肉の欲というのは性的なことを言っているのではありません。人間的な思いであり、その代表的なことは人を悪く言うことです。
 この後の3章9節に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」とあります。神に逆らう為政者から迫害されたり、気難しい主人に苦しめられたりすれば、神を信じていたとしても苦しく辛いことです。そんな時、心でそれらの人を悪く言ったり、ののしってしまう、それが肉の欲の現れです。

 さらに言葉が続きます。「異教徒の中で立派に生活しなさい」という勧めです。立派な生活とはどういうことでしょうか。イエスは山上の教えで「あなた方は世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。」と語りましたが、立派なというのは、「善い行い」です。人に見られて美しいものです。立派な生活、つまり美しい行いが人々の心に説得力を持って、あなたがたを悪人呼ばわりしている人たちの心を変えるのだというのです。「(12節)そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

「訪れの日に神をあがめるようになる」この訪れの日とは、文字通り神が私たちを訪れてくださる時、世の終わりの時と考えられる個所ですが、また他にこういう解釈もあります。それは、キリストを信じることに反対し、それを悪く言う人に対して、何かもっともらしい理屈や言葉で打ち負かすのではなく、いつの日かじんわりとキリストの愛が分かってきて、あの時にあの人が言ったこと、あの人が行ったことはこういうことだったのかと気づいてくれる時が来るのだということです。つまり、私たち信仰者を非難し、迫害し、悪口を言いふらしていた人たちの所に、いつの日か神ご自身が訪れてくださる日が来るのだという、神の訪れの日です。

 13節からは、まず統治者としての皇帝、また、皇帝が派遣した総督など政治的支配者に対しての態度が語られていきます。本日はそこまで入りませんでしたが、続く18節には「召し使いたち」という呼び掛けがあります。主人に仕える召し使いたちがその主人に対してどのような態度で仕えたら良いかが語られているのです。さらに3章に入りますと「妻たちよ」という言葉が出てきます。妻が夫に対してどのように生きたらよいかが語られていきます。そのようにここでは、国や政治との関わりでの生活態度、それに続いて主人と召し使い、妻、夫、というように家族の関係について語られていきます。

 ですから13節の「 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」という言葉は、必ずしも国家との関係だけではなくて、仕えているその家のご主人との関係や、夫と妻の関係等すべてのことに関わっている言葉だと考えられます。「すべて人間の立てた制度」とありますが、そういう人間的な営みがなければこの世で人々の生活はなりたちません。私たちは政治家によって立てられた制度によって暮らし、召し使いとしてその家の秩序の中で主人に仕えて暮らすのです。

 しかしここで問題は、ここに出て来る権力者や主人すべてが立派な人ではないということです。地位や権威をかさに着て威張る人もいます。そういう人に対してどうすればよいのかを教えているのです。人間はどんな人であれ神に造られたものであり、神のご支配の下にあります。にもかかわらず、この世で権威を持ち、人の上に立つようになると、自分自身を絶対化し威張るようになってしまうのです。この当時のローマ帝国時代、皇帝は自分を神として、民に皇帝礼拝を強要しました。そのような中でイエスを信じるということは、大変なことでしたが、それこそが本当に具体的な救いであったのです。イエスによって魂の救いに与ることはもちろんですが、そのような厳しい生活の中で自分を抑えつけているものからも真に解放されていったからです。

 もちろんイエスを信じたとしても依然として奴隷である人もいたことでしょう。しかし神を主人として生きることを知ったものは、他のいっさいのもの、自分を抑えつけているさまざまなものから自由になっていったのです。「(16節)自由な人として生活しなさい。」とペトロが語っていますが、「しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」と続けています。自由な人として生活することは、すなわち神の僕として行動することなのです。

 神を主人とすることを知った人は、他のいっさいの主人から解放され自由にされていきます。しかし、ここに問題があります。自分は本当の主人、お仕えする神を見つけたのだからと、今まで仕えてきたこの世の為政者や主人を軽蔑し軽んじるようになることです。私の主人は神を知らない愚か者であると軽蔑するようになり、しかもそういう思いは信仰的に正当化されるとまで考えてしまうのです。しかし、ペトロはそういう考えは本当の自由ではないと言います。

 ペトロは、「すべて人間の立てた制度に従いなさい。」と語り、人間の組織や国家の持つ政治権力を重んじています。しかし、それは主なる神という絶対的な存在の前では相対的なものです。国家をはじめ、いろいろな権威は敬うべきものではありますが、私たちは何よりも神への畏れがそれに先立つのです。私たちが地上の権威に従うのは何よりも「主のため」です。実際キリスト教は政治を超えているのです。ローマの圧政下、絶えず反乱や革命がおこりましたが、キリスト者は政治的反乱など起こしませんでした。しかし後の時代にキリスト教は受け入れられていったのです。

 この世の国は、神の国と違って過ぎ行くもの、暫定的なものです。それは地上の旅人にとっては一時的なものです。地上の国家や権力者がどれほどの力を持っていたとしても、それはいつかは過ぎ去ります。そのような視点に立って生きる時、人は本当に自由になります。

 イエスは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。ペトロもまた「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」と語っています。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」というのは、皇帝を恐れることでも、この世の権力を恐れることでもありません。すべての人は、皇帝であろうが、傲慢な主人であろうが、妻を大事にしない夫であろうが皆等しく神の愛の中にあるという認識です。神はこれらすべての人を愛しておられる、そのことを認めなさいと語っているのです。つまり、人間が作り出したこの世界に生きながらも、神に属するものとして生きていきなさいというのです。ただし無条件ではありません。「主のために」この世に仕えなさいと勧めているのです。それはただ父なる神が崇められるためです。

「主のために」とはいえ、人間が作った制度に仕えるということは、目に見えるところでは負けを味わい、みじめな姿を取るかもしれませんが、これこそがイエスが示したくださった神の僕の姿なのではないでしょうか。いつの日か、神ご自身がすべてを明らかにしてくださり、失ったものや奪われたものを回復してくださいます。

 イエスは、実にやわらかでしなやかな心を持っておられました。このお方こそ真の王、真の慰め主です。決してご自分から悪に対して悪で訴えることはなさいませんでした。けれどもそれは、国政を批判するなとか、悪を黙認せよということではありません。実際、このお方ほど厳しく人間の悪を批判なさった方はいませんでした。一人の小さな存在がほんの少しでも傷つけられるようなことがあれば、またそのような過ちに加わるような人々に対しては、例えそこにいかなる理由があろうとも断固たる「否」「いけない」を突き付けられたお方です。

 イエスは人間の立てた制度が欠陥だらけだということは、誰よりもよくご存じだったと思います。けれども人間が作ったその欠陥だらけの制度のなかで、間違った判断によって神の愛する独り子として殺されることを良しとされたのです。このイエスに従って歩むすべての人の中に、主にある美しい行いがあるのです。新しい週も、私たちがどうか自由な広い心で、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れる日々を過ごしていけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)