実のならない木

ルカによる福音書 13章1〜9節

 近年、地球規模で気象が大きく変化していて、自然災害が多くなりました。地震や津波や大雨の被害等で多くの方が大変な被害を受け、苦しんでおられます。今は新型コロナウイルスという疫病が蔓延しています。古くから、人間はそういう災害の原因について様々に解釈してきました。その中に天譴論という考え方があります。災害を個人の罪に対する神罰だとする考え方です。本日の御言葉はそのことについてイエスが語られているところです。

「(1〜5節)ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。またシロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」

 ガリラヤからエルサレムの神殿に礼拝に来ていた巡礼団の何人かが、ローマ帝国から派遣されていた総督ピラトの兵卒たちによって殺され、その血が、彼らが捧げようとしていた犠牲の動物の血に混ぜられたというのです。これはガリラヤ人たちが犠牲を捧げている最中に殺されたので、きっと彼らの血が犠牲の動物の血に混ざったということなのでしょう。ローマの統治下にあったユダヤでは、ユダヤ人たちの独立志向の行動が、ピラトに厳しく弾圧されたという記述がいくつも残っています。特にガリラヤ人は非常に激しやすい人々であったようで、ふとしたことで簡単にピラトの兵卒たちとトラブルを起こして、命まで失ってしまったということです。

 思いがけない事故によって何の落ち度もない人たちが命を失うというニュースを耳にする時、例えば飲酒運転による交通事故でかわいい子どもが亡くなったと聞きますと、加害者への怒りがわいてきますし、私たちは素朴に、その人たちはどうしてそのような目に遭わなければならなかったのだろうと思います。当時の人たちは、その殺されたガリラヤ人は、エルサレムの他の住民よりも罪が重かったからだと考えていたようです。イエスのところにそのニュースを告げた人は、まさにこのような考えを持っていたからで、はたしてそのような考えで良いのかということでした。

 この知らせを聞いたイエスは、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」と、強い調子で否定しておられます。そんな風に、その人たちが罪深いからそのような目に遭うと思うなんてとんでもないことだ、と言っておられるのです。当時の人たちに根付いていたそのような考え、彼らの心の中にある無慈悲、無情さに対してイエスは悲しみ、嘆き、憤っておられたのではないでしょうか。ピラトによる弾圧で死んだガリラヤ人の犠牲者も、シロアムの塔の崩壊で死んだ人も、今ここにいる人々と比べて罪が重かったなどということは決してないというのが、イエスの明確な答えでした。イエスの言葉は、悔い改めなければ、誰もが同じように滅びるのだ、という強い警告で終わっています。
イエスは、知らせを受けたこの事件と、たまたま当時起こったシロアムの塔の倒壊で十八人が死亡したという事件を例にとって、災害を個人の罪に対する罰だとする考え、つまり災害に遭うのは、その人が罪深かったからだという因果応報の考えをはっきり否定されました。皆同じように罪深いと教えられたのです。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 むしろ他人が被った災難を見て、自分たちは彼らよりましだと思ったり、あるいは一段上からそれらの人たちを眺めて気の毒がるような思い、そのような心こそ、実は神の裁きの対象となる心なのだというのです。なぜなら、そこには自己保全を喜ぶ思いがあるからです。「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」という言葉は、そのような自己中心的な罪深い心に気づきなさいということです。

 イエスはここで、私たち皆に神の裁きを免れる必要があること、悔い改めて神の身許に立ち返ることを説かれているのです。私たちに未だ決定的な災いが臨まないのは、私たちに罪がないからではなく、私たちに悔い改めを求めておられる神の忍耐深い心の表われです。

 私たちは神への信仰を持っていると思っていますが、神の忍耐というよりも、自分たちの方が忍耐していると思いがちです。私たちは、神は少しも祈りに応えてくれない、私たちの生活を恵んでくださらない、少しも世の中を良くしてくださらないと嘆きます。私たち人間の方が、神のなさり方に対して忍耐して待っているのだ、しびれを切らしているところがあるのだと思っているのです。しかし、聖書はその逆で、神の忍耐を語っているのです。神は耐え忍ぶお方です。私たち人間が少しも神の御心に従わず、何の役にも立っていないことをじっと我慢し続けておられるのです。その忍耐深さを語っているのが、その後に続いているイエスの譬え話です。大変分かりやすい話ですが、ここには実に深い意味が含まれ、イエスの豊かな福音が満ちています。

(6〜9節)そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 ぶどう園の持ち主、ここで御主人様と言われている人が神であることは容易に想像できると思います。聖書には神が造られた世界をぶどう園に例えているところがたくさんあります。また、当時ぶどう園にいちじくを植えることは、必ずしも特別のことではなく、よくあることだったようです。

 この主人は、ぶどう園に植えたいちじくの木に実がなるのを楽しみにしていたのです。ぶどう園がこの世界だとすれば、このぶどう園に植えられたいちじくの木というのは、ユダヤの民のことを指しているのではないでしょうか。特別な期待を込めて選ばれたユダヤの人々、神の民イスラエルが、神の正義に生き、神が求める愛に生きてきたのか、神の真理を生きることによって本当に神のものとして祝福される実を結んでいたのかが問われているのです。

 期待が大きければ大きいほど、それが失望に終わる時のいら立ちは大きいものです。三年たてば実を結ぶはずでしたが、いまだにその実が得られません。「切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか」と主人は園丁を怒鳴りつけました。これは不毛の民イスラエル、ひいては私たち神を信じる者達に対する神の裁きの宣言です。主人の切り倒してしまえという判断は正しいかもしれません。しかしこのたとえ話では、園丁が、はい、そうですかと言って、いちじくの木を切り倒して終わっているのではありません。主人の怒りに対して園丁は「(8節)園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。』」と答えています。

 三年間、いちじくが実を結ぶようにと園丁は一所懸命世話をして、御主人の期待に添うように努めたのです。それは善い結果が生まれてこそ、意味を持つ努力でした。しかし、すべての労苦は徒労に終わっていたのです。主人の忍耐は今や限界に達していました。しかしこの時、園丁はいちじくをかばっています。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。」と乞い願っているのです。「木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。」と、なお一年の猶予を得ようとご主人にかけあい、園丁はまるでいちじくの木の身代わりになったかのように主人に赦しを願っています。私に免じて赦してやってくださいと主人に頼んでいるのです。なんという愛でしょうか。ぶどう園の御主人が神であるとすれば、主人に信頼されているこの園丁は主イエスご自身のことではないでしょうか。イエスは、この譬え話の中で、自分が何のために来られたかを伝えておられるのです。それはあなた方を神の前でかばうためである、神によってあなたがたが切り倒されてしまわないようにするためだと言っておられるのです。

「御主人様、このいちじくの木を切り倒さないでください。助けてやってください。木の周りを掘って肥料をやってみますから、そうすれば来年はきっと実がなるかもしれません。」このように園丁は主人に頼み込みましたが、さて実際はこの先、どうなっていったのでしょうか。やがてこの譬え話をされたイエスは捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまいました。それはつまり、いちじくの木を身をもってかばった園丁は、それでもどうしても実がならないいちじくの木を守って、自分自身が切り倒されてしまったということです。言い換えると、実がならないいちじくの木に押し倒されて死なれたのだということです。実際、イエスが殺されたのはいちじくの木に例えられているユダヤ人たちによったのです。

 いちじくの木に例えられたユダヤ人たちは、自分たちが実をならせることができなかったことを棚あげにして、イエスをまるで役立たずであるかのように非難しました。十字架に架けられたイエスを見て、「他人を救ったのなら、自分を救うがよい。」と嘲笑ったのです。しかし、そのような中にありながら、されこうべという場所に連れて来られ、二人の犯罪人と共に十字架につけられた時に、イエスは神に祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:43)と。

 自分たちが切り倒されてしかるべきところを、その代わりに救い主イエスが身代わりとなってくださったのにも関わらず、ユダヤ人たちはそのイエスを切り倒そうとしているのです。そのような人たちのために、イエスは祈りを捧げてくださっています。その罪の許しを神に願ってくださっています。ぶどう園の園丁がいちじくの木をかばい、主人に執り成してくださった願いを、イエスは十字架の上で神に向かって繰り返しておられるのです。イエスは、このいちじくの木、ひいては私たち一人ひとりを徹底的に守りぬいてくださったのです。始めにこの譬え話は深い意味を含んでいますとお伝えしたのは、ここにはイエスの十字架の死に至るまでの道が隠されているからです。

 古いキリスト教の歴史では、この譬え話は年末によく読まれたそうです。どうしてかと言うならば、神を信じて生きていても私たちはなかなか神の御心に添うような生き方ができません。この譬え話の中のいちじくの木のように、実を実らせることができないでいます。年の暮れになって、ああ今年も駄目だった、今年もダメだったと、毎年のように繰り返すので、もう諦めの境地になってしまうわけです。しかし、この譬え話を読んで、神の忍耐強い限りない愛の恵みを思って、希望を持って新しい年を迎えることができるのです。

 神への信仰に生きるというのは、毎日新しい命をいただいて生きていることを知ることです。毎日新しくやり直しができるのです。私たちのために日々身をもってかばっていてくださるイエスの愛を信じて、新しい週も感謝して生きていきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)