御足の跡を

ペトロの手紙一 2章18〜25節

 ここでは、ペトロが「召し使いたち」と呼び掛けています。(口語訳聖書では「僕たる者よ」)この召し使いというのは「家に属する奴隷」(ギリシア語ではオイケタイ、一般的な奴隷はドウロス)という意味です。奴隷という言葉を聞きますと、ストー夫人が書いた「アンクルトムの小屋」等に出てくる鎖につながれ鞭で打たれて酷使されている人々を想像しますが、この当時の奴隷には医者も教師もいましたし、会計を預かったりしてご主人の大切な仕事を任せられている人がたくさんいたのです。

「家に属する奴隷(家庭奴隷)」は一軒の家に所属しているその家の所有物でした。当時のローマ帝国には、たくさんの奴隷がいまして、ある説では6千万人とも言われています。しかしローマ帝国がつくられた初期には奴隷はほとんどいませんでした。ローマ帝国が周辺諸国を征服していくと同時に奴隷制度が始まったのです。なぜなら奴隷はもともと戦争で負けた国の人たちが捕えられてきた捕虜だったからです。当時はローマ社会で働いている人たちは、生産的な仕事でも文化的な仕事でも、仕事という仕事はすべて奴隷がこなしていました。主人は奴隷たちに仕事をさせて、自分は遊んで贅沢三昧の暮らしをしていたのです。当時のローマ社会には「パンとサーカス(食糧と遊興)」という言葉があり、それを象徴しています。

 奴隷の供給が途絶えるということはありませんでした。奴隷が結婚することはできなかったようですが、同棲は許されていて、生まれた子どもは両親のものではなく、その主人の所有物となっていったからです。ローマ社会が続いているうちに、生まれながらに奴隷である人も出てきました。自分の両親が奴隷であるために奴隷として生まれ、育てられ、売り買いされていったのです。しかし、奴隷の運命がいつもみじめで不幸であったとか、いつも残酷に取り扱われていたと考えるのは正しくありません。家庭奴隷たちはその家族から愛され、信頼された一員だったのです。ただし、ローマの法律では、奴隷は人間としての人格を持っていませんでしたので、どんな基本的な権利もありませんでしたし、正義がなされることや公正なことは期待できませんでした。ただ主人の意志と気まぐれだけがその人の人生を支配していたのです。

 当時の奴隷たちの間にはきっと様々な悩みがあったに違いありません。自分はなぜ奴隷なのだろう、どうしてあのわがままで気難しい主人の命令に従わなくてはならないだろうと考えていたかもしれません。このような社会状況にある時に、キリストの福音が、すべての人は神の目に尊いもの、神はすべての人間を愛しておられるという素晴らしい教えをもって登場したのです。ですから、奴隷たちの中からキリストを信じる者がどんどん増えていきました。

 教会の中では次第に社会的な階層の壁が崩されていきました。コリントの信徒への手紙などを読みますと、奴隷と主人が同じ教会に属していたことが推測できます。やがてはこの奴隷たちの中から教会に仕える者があらわれてきます。人間としての人格も権利も持たない人を魂の指導者にすることなど、一般社会では考えられない時代に、教会の中では奴隷解放が始まっていたのです。けれどもこのような動きは、まだまだ社会的な意味での奴隷解放にはなっていきませんでした。パウロがオネシモという奴隷の主人であるピレモンに宛てて書いた「ピレモンへの手紙」というのがありますが、この手紙の中でパウロはオネシモを「主にある兄弟」と呼んではいますけれども、彼を奴隷から解放してやるようにとはどこにも書いてありません。当時の社会は奴隷たちがいて成り立っていたのです。

 ではペトロは、召し使いたちと呼び掛けている「家に属する奴隷たち」に何を語っているのでしょうか。「(18節)召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」ここに書かれている「無慈悲な主人」というのは、奴隷を不当に扱う酷い主人のことを言っているのでしょう。もちろん善良で優しい主人もいたでしょうが、奴隷を酷く扱う主人もいたのです。そのような酷い主人であっても従順に従いなさいと勧めているのです。しかしこれを読む人は、そんな馬鹿なことをと思われるかもしれません。神を信じるようになったのだから、キリストの力を受けてそんな酷い主人には皆で反抗して、協力してその奴隷たちを解放させてやろうという方がずっとすばらしいことのように思われるかもしれません。

 ところがペトロは、ここで「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。」と言っているのです。この「おそれ」とは主人に対する恐れのようにも読めるのですが、ここは神に対しての畏れを意味していると理解されています。そしてそれが正しい読み方であるということは、その前に書かれている所からもわかります。以前、2章16節「自由な人として生活しなさい」のみ言葉について語った時にもふれましたが、キリストを信じるということは、自由人になることです。そしてキリストによって心が解放された人は、自分は今や神のものとされているのだということがわかっていますから、もう人間を恐れることがなくなるのです。これは人間の生き方として大変大事なことだと思います。恐ろしいからとか、この人の言うことを聞かなかったら大変な目に遭うからと言う理由で、人に従うということがなくなるのです。それはその人が人間を恐れなくなったというのではなく、本当の意味で神を畏れるようになったからです。神を畏れる時には、神以外の者、つまり人間を恐れる必要がなくなるのです。どんなにひどいことを言われてもどんなにひどい目にあわされても、この人は神ではないのだから、この人は私の魂に指一本触れることもできないのだとはっきり知っているからです。

「(19 節)不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」たとえ不当な苦しみを受けるようなことがあったとしても、そこに神の御心を見出して、これに耐えるならば、その態度は神の誉れを受けることになるのだとペトロは語ります。つまり主人の非道な扱いに耐える唯一の道は、心に神の存在を意識することだというのです。神は人を偏り見ることなく、すべての人の心にあるものを知っておられ、正当に報いをお与えになるお方です。主人がその感情のおもむくままに奴隷を不当に扱っていた時代に、この教えは深い意義がありました。ここは一見すると、あまりにも主人側に甘い対応の仕方ではないかと思われるかもしれませんが、かえって主人に対しては、召し使いたちの高潔さが神の存在を意識させ、大いなる審判を宣言していることになったのだと思います。

 さらに「(20節)罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」と、私たちの信仰生活で、実践すべきことを語っています。ここに神に召された者の生活があります。それは善を行うこと、良いことを行うことです。もし、これは良いことだとわかっていてもそのように行動しないならば、それが良いとわかっていない人よりも悪いことになります。

 続いて「(21節)あなたがたが召されたのはこのためです。」と召し使いだけでなく、広くすべてのキリスト者に向けての語りかけがあります。神はどのような人をも、目的を持って召されています。どのような苦しみにも意義を与えておられます。すなわち神を信じる者一人ひとりに目的と意義を持っておられるのです。その根拠として「(21節続き)というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」と、ペトロは私たちにキリストの御生涯をとりあげて、キリストの御足の跡に従うようにと勧めています。私たち主イエスを信じる者の生活は、イエスが歩まれた足跡についていくことなのです。そのイエスが残してくださった足跡が「模範」です。模範というのはお手本と言う意味です。私たちがお習字をする時にはお手本の文字をよく見て練習しますし、時にはなぞって書いたりして上手になっていくのですが、ペトロは私たちにはそのようなお手本があるではないか、私たちはイエスがなさったお手本のように生きればよいのだと語っているのです。

 そしてキリストの模範を教えるのに、イザヤ書53章の苦難の僕の姿を思い起こしながら書いています。これらは当時の教会の讃美歌の一節であったかもしれませんし、教会の中で絶えず語られていた信仰の内容であったかもしれないと言われています。「(22〜23節)この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」今、私たちは大変偽りの多い世の中に生きています。嘘をついて堂々と人をだます仕事をしている人がいます。語られる言葉が中味を伴っていませんし、愛しているという言葉にさえ偽りがあります。悪口を言われたら悪口を言い返すのが普通であって、悪口を言われてもニコニコしていれば偽善者だと言われます。しかし、イエスはののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅すことはなかったのです。イエスくらい人間を超えた力、人間を脅し得る力をお持ちの方はいませんでしたが、ご自分を守るためにはただの一度もその力をお使いになることはありませんでした。それは神だけが正しい裁きをなさることを知っておられ、神にすべてを委ねておられたからです。

 神に委ねるといいますと、それはごまかして逃げているのだと言う人がいます。しかし神に委ねることは、正義などどうでもよいことだということではありません。そうではなく反対に、徹底して正義に生きていることなのです。この世における人間の力や能力では、真実や正義をはっきりさせることができないからです。すべてを御存じの神が正義を行われるのです。大事なのは、その神の御心に生きることです。主イエスは、ご自身に苦しみを受ける原因が何一つないにも関わらず、私たち罪人に代わって十字架に架けられたのですが、十字架に架けられる前、血の汗を流して祈られました。正しい裁きをなさる方に委ねるということはそれほどに重いことです。

 イエスは、正しい裁きをなさるお方に一切をお任せして生きられたのです。それによって、私たちは罪に対して死に、義に生きるようにと導かれました。「(24後半)そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」傷によって癒されるというのは、言葉が矛盾していますが、イエスがそのお身体に受けられた傷の痛みが、実は敗北ではなく勝利であったということ、イエスの死が命に繋がっていったという救いの希望になっているのです。

「(25節)あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」これは単に召し使いたちだけでなく、イエスを知らないでいる人、イエスから遠く離れているすべての人のことを言っています。飼う者がいない羊はあらゆる危険にさらされ、目的も望みもなくさまよい歩いているのです。しかし、イエスは「わたしは良い羊飼いです。」(ヨハネ10:11)と語られました。イエスの贖いによって人間は帰るべきところ、本当の牧者のもとに帰ることができたのです。

 私たちは、私たち人間を愛していてくださる神の御許に立ち帰って生きていく時、またイエスの御足の跡に従って生きていく時、神からの豊かな祝福があることを体験します。どうか新しい週も、神の導きを信じて、主の御足の跡に従って生きていけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)