あなたのパンを水の上に流せ

コヘレトの言葉11章1〜6節

 コヘレトの言葉には印象的な多くの言葉がありますが、その一つが今お読みいただいた「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(11章1節)という御言葉です。これは無償の愛を比喩で教え、その実践を促しているものです。イエスはこの無償の愛を、人のなすべき最優先概念として教え、自らそのとおり実践しました。その愛は代償を求めない愛で、キリスト教はこのイエスの無償の愛の教えに基づいています。ギリシャ語では愛の概念を、アガペー(無償の愛)エロス(性愛)フイリア(友愛)ストルゲ-(家族愛)と分けて考えていますが、その中でもアガペーの愛は、その対象の如何を問わず、主体的に積極的に相手を尊重する愛のことです。

 ところで、水にパンを浮かべて流したらどうなるでしょう。たちまち溶けて分解し、再び原形を取り戻すことはできません。この比喩は、与えるだけで代償を求めない無償の愛(アガペ-)を教えているのです。代償を求める愛は、相応な報いがないと不満が起きます。不満が積み重なると次第に増幅し、憎しみとなり、心が揺れ動いてついには怒りとなり、愛に報いてくれない相手に向かって爆発するのです。多くの人々は今も愛と憎しみの狭間で悩み苦しんでいます。しかしイエスはこのような報いを求める不完全な愛を否定しています。

 次の2節「七人と、八人とすら、分かち合っておけ、国にどのような災いが起こるか、分かったものではない。」は分かち合いの勧めです。伝統的なユダヤ教のラビの解釈では「不確かな将来の中で、今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て。」というものです。内村鑑三もこの考え方をしています。彼は注解書の中で書いています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず。されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ、物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである。」(内村鑑三注解全集第五巻より)

「報酬や賞賛を求めずに善を行え。」これはイエスが言われたことでもあります。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」(ルカによる福音書6章34節)人は「自分を愛してくれる人を愛する」ことはできます。「自分に善くしてくれる人に善いことをする」こともできます。「返してもらうことを当てにして貸す」ことはできます。しかしイエスはそれでは不十分だと言われます。「罪人でさえ同じことをしている、あなたは返してもらうことを当てにしないで貸しなさい。」と言われています。つまり「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」というのです。聖なる浪費と言えるかもしれません。

 これを文字通りに実行したのが、マザーテレサです。彼女は語ります。「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人に優しくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人に優しくしなさい。…正直で誠実であれば、人はあなたを騙すかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。…心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善いことを行い続けなさい。持っている一番良いものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番良いものを分け与えなさい。」私たちも今日、コヘレトの言葉を通して、このような神の国の倫理に招かれています。

 では現実社会の中で「パンを水の上に投げる」とはどのようなことでしょうか。皆さんは「フードバンク」をご存知でしょうか。品質に問題がないにもかかわらず市場で流通できなくなった食品を、企業や個人の備蓄食材から寄付を受けて、生活困窮者などに配給する活動です。今年は年度初めから新型コロナウイルスの感染拡大で学校が休校となり、給食が無くなりました。一人親世帯では経済的な打撃を更に受け、その日の食事も欠くような危機的状況になっています。浅草橋にある「セカンドハーベスト・ジャパン」(フードバンクの一団体)は、週に4日間、食品の配布をしていますが、毎回200人程が並ばれると聞いています。フードバンクの働きは教会でも個人でも参加できます。私たちもできるところで協力しています。

 コヘレトの言葉11章の基本にある考え方は、「先のことはわからない」です。お読みした6節の短い文章の中には「わからない」という言葉が繰り返し出てきます。(2節)「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない。」(5節)「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに」(5節)「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(6節)「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」このように人生の先行きは不明です。農作物の生育や収穫は気候に大きく左右されます。そのように将来が読めない時、何らかのリスクがある時、「種蒔きはやめておこう」とか、「収穫はもう少し待とう」等のためらいを見せるなとコヘレトは語ります。将来がわからなくても、神を信頼して「為すべき時に為すべきことを行え」とコヘレトは語っているのです。

 確かに将来は不透明です。しかし先が見通せないからといって、今、何もしなければ将来に何も期待できません。しかし今何かをすれば何かが生まれます。パウロは語っています。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」(コリントの信徒への手紙二9章6節)自分の行った努力によって、報われる確率は異なってきます。リスクを取らなければ収穫はないのです。ここは悲観的なことを認識した上で、積極的な行動を促しているのです。何があるかわからないから、何もしないのではなく、日中暑かったら夜に種蒔きや収穫しても良いと言い、神を信頼して最善を尽くせとコヘレトは語っているのです。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」このコヘレトの言葉11章1節の御言葉から生まれた讃美歌に「報いを望まで」(讃美歌21:566番)というのがあります。次のような歌詞です。「報いを望まで、人に与えよ。こは主の尊き、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを。」目先の利益を求めるのではなく、また自分の利益のみを追求するのでもなく、ただ神のものを神にお返しする生活です。イエスは言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)。ひたすら神の国と神の義を求めて生きること、それがキリストを信じる者の生き方だと思います。

(篠崎キリスト教会員 上原一晃)