光は闇の中に

2020年12月24日(木)クリスマス・イブ礼拝説教から

ヨハネによる福音書 1章1〜14節

 今夜はクリスマス・イブです。皆さまは教会の庭に瞬く青と白の美しい光の歓迎を受けながら礼拝堂に入って来られたと思います。暗い夜に光っている明かりは本当にきれいですね。優しくてあたたかです。今年は新型コロナウイルス感染症が全世界を襲って、大変な一年となりました。今夜、教会においでくださった皆様は、きっと緊張感を持って参加されたことと思います。そういう厳しい状況の中での礼拝ですが、どうか皆様が、クリスマスの喜びに心満たされますようにと心から願っております。

 クリスマスというのは、すべての人に与えられた大いなる喜びの訪れです。ベツレヘムの野原で羊の番をしていた羊飼いたちに、輝く主の天使が現れて、驚く羊飼いたちにこう告げたのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10〜11)「救い主がお生まれになった。」これがクリスマスの喜びなのです。羊飼いたちはこれを聞いてすぐにお祝いに駆け付けたのですが、今の私たちはどうでしょうか。

 クリスマスの喜びをどのように受け取って、どのように味わうかは、人によっていろいろ違った形をとると思います。子どもたちはサンタクロースが贈り物をもって来ることを喜ぶでしょう。若い人は親しい友達とにぎやかに美味しい食事をして楽しく過ごすことを喜ぶかもしれません。諸外国では普段離れ離れに暮らしている家族が集まって一家団欒の楽しいひと時を過ごすことが、なによりも素晴らしい喜びの時だということになっています。もちろん今、コロナ禍の中では人が集まることは控えているでしょうが、そういうことをクリスマスの喜びの行事だと考えている人はたくさんおられます。

 しかし今は、新型コロナウイルス感染症のために仕事を失い、住む所を追われ、生活が成り立たなくなった人がたくさんおられ、深刻な社会状況があります。もちろん新型コロナウイルス感染症が流行する以前から、この冷え切った世の中には、そういう喜びもなく、孤独の中に沈みこみ、希望を無くし、先行きが見通せずに悩み苦しんでいる人がたくさんおられます。そういう方々にとっては、いったいクリスマスが喜びの時だとどうして思えるでしょうか。いったい何を喜べばよいのでしょう。喜びの源はどこにあるのでしょう。

「(1〜4節) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」ここには「言」あるいは「光」という単語が何回も出てきます。これは何のことで、誰のことを言っているのでしょう。この「初めに」というのは天地創造の時のことです。その時から「言」は神と共におられたのだと著者ヨハネは語っているのです。つまりこの個所でヨハネは、神と同等の存在であるイエス・キリストというお方が、天地創造の昔からおられたのだということを力説しているのです。

「言葉が肉体となった。」これがクリスマスの中心的メッセージだと言うことができます。言葉はロゴスと言われていますが、これは人間がその考えや思いを他人に伝える時に言葉を用いるように、目に見えない神が、人間に対する深い愛と御心を伝えようと、人間に語りかける働きを言います。それがここで「言」と言われているお方で、天地創造に参与された永遠の先在者とも言えるお方です。つまり世の初めから神と共におられて、神を啓示する(表す)お方なのです。へブライ人への手紙の記者は、「(ヘブライ1:1〜2)神は、かつて預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と語っています。イエス・キリストがこの世に来られたということは、この御子を通して神が私たち人間に語りかけられるということ、つまり神の深い御心を私たちに伝えるために御子をお遣わしになったのだと語っているのです。

「(18節)いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」言葉が肉体となったということは、このように誰も見たことのない神が、独り子なるイエスによって現れたということです。私たち人間が肉体をもってこの社会の中で生きているように、神が目に見える一人の人間としてこの世に来られた、これを「言が肉体となった」と言い表しているのです。「(14節)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」このように、クリスマスは、神が私たち人間の姿をとって来られたことを喜び祝う時なのです。その神を自分の心の真ん中で受け止め、その喜びを身をもって味わう時なのです。

 では、神が私たちのような人間の姿となられたというこの驚くべき事件に対して、私たちはどのような態度をとっているでしょうか。聖書はこのように語っています。「(9〜10節) その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」何ということでしょうか。「言」つまりイエスはこの世、つまり自分の所に来たのに、自分の民はこれを受け入れなかったというのです。これが毎年クリスマスを迎える私たち人間のありさまです。多くの人の心の目は閉ざされたままで、今なお暗闇の中にいます。真の神である御子の光を受け入れることができないからです。神は私たちを愛するがゆえに、独り子である御子をさえもこの世にお遣わしくださったにもかかわらず、私たちの心の闇はなんと深いことでしょうか。ヨハネは続いて語ります。「(12節)しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」ここの「神の子となる」の「なる」(ギノマイ)は、「言は肉体となる」の「なる」と同じ言葉です。神が御子をこの世に人の姿をとって遣わされた、その人知を超えた素晴らしい力で、私たち闇の子が神の子となるのです。そこには神が世界を創造された時と同じような力強い創造的な意味が込められています。ここに書かれているように「その名を信じる人々には」つまりイエス・キリストを受け入れたその信仰、イエスを信頼する心によって、私たちは神の子となることができるというのです。人間の力や修養や知識によって到達するのではありません。そしてそれは、「(13節)この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあるとおり、神によって生まれるのです。

 何度も繰り返しますが、クリスマスの恵みは、言が肉体となったということです。と同時に、私たち罪ある人間を神の子として新たに生まれさせる恵みの時でもあります。自分の知恵や力や努力によるのではなく、ただひたすら神の御子イエスに委ね、神への信頼をもって、神の恵みによって、新しく生まれるのです。ここにクリスマスの喜びの源泉があります。しかしながら、この闇の世は、なかなかこの真理を受け入れることができません。「(5節)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあるとおりです。この「輝いている」という言葉を吟味しますと、これは現在形で「今、輝いている」ということです。この「光」はイエス・キリストを指しています。イエスが生まれたのは過去のことですが、イエスは死からよみがえって、今も生きておられるということなのです。そしてこのイエスが今、生きておられるということは、現在もその光がこの世の闇の中に輝いているということなのです。

 私たちの目はこの世の闇にさえぎられ、罪の汚れに満ちていて、なかなかこの光を見ることができないかもしれません。しかし光は輝いているのです。そしてどんなにこの世の闇が暗くても、闇は光に勝つことができないのです。今、世界のあちこちで、私たちが生きているこの社会の中で、またすぐ身近なところでも、いろいろな闇が勝利を得ているように見えます。まるで一所懸命生きている私たちを嘲笑い、私たちが敗北しているかのように見えることも多々あります。しかし光は輝いているのです。そしてこの世の闇はこの光に勝つことはできません。(ヨハネ16:33)「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」このようにイエスは慰めの言葉を語っています。キリストがよみがえられたことによって、その勝利の光が、クリスマスの今、私たちの前に輝いているのです。

 この世に生きている私たちにとって、今の社会はほんとうに深い闇に満ちています。人が生きていく上での恐れや悩みや苦しみが満ちています。しかし、このクリスマスの時、御子イエスが光となって来てくださったのです。どうか自分の目に見える表面のところだけでなく、見えないところに目を向けていただきたいと思います。厚い氷の下にあたたかい流れがあるように、この冷たい人生の厚い氷の下に、神の愛のあたたかい流れがあることが発見できると思います。「闇の中に光が輝いている。闇は光には勝てない。」このことをクリスマスの時、しっかり心に留めたいと願っています。もし光が無いままに闇の中を歩いていくならば、私たちは自分がどこに行くのか分かりません。イエスは人間が闇の中に留まったままでいることがないように、この闇の世界に光として来てくださったのです。私たちはイエスの光なしには生きる道が見いだせません。

「暗闇は光を理解しなかった。」御子イエスがこの世においでくださった時、人々はイエスを通して神が私たち人間に求めていることや、イエスを通して示してくださった人間の歩むべき道を理解することができませんでした。人々にとって、イエスの言動はばかげたこととしか受け止められなかったからです。そして終に人々はイエスを十字架に架けてしまいましたが、イエスを滅ぼすことはできませんでした。イエスは十字架に架けられましたが、死から甦って勝利を得られたのです。ここを「暗闇は光に勝たなかった。」とも訳すことができることからもわかります。

 イエスがこの世に来られたのは、この世の闇を照らすためです。夜明けが来て、太陽が昇るのに似ています。イエスは全ての人を照らす光、真実な光です。また、イエスがこの世に来られたことは、疑いの闇を追放しました。イエスが来られるまで、人間は神については、ただ勝手に憶測するだけでした。人間が考えた神をつくり出していたのです。しかし、御子イエスが私たち人間社会に来てくださったことによって、神が如何なるお方であるかをつぶさに知ることができたのです。もはや闇の力は消え去りました。憶測の時代が過ぎました。光が来たからです。イエスが来られたことと、そのご生涯、そしてその死と復活によって、私たち人間の死というものが、豊かな命への道に過ぎないことも示されました。死の闇は過ぎ去りました。イエスの光はこの世に生を受けたすべての人の人生全体を照らす光なのです。

 神は信じる者と共にいてくださいます。インマヌエル(神は我々と共におられるの意味)の神です。私たちは神の恵みによって神の子となる力を与えられ、人生の行く手にある闇にも立ち向かうことができるのです。どうかクリスマスのこの佳き時に、暗闇になじんでしまった私たちの病める心の目を開き、本当の人生の光を見出していただきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)