全地に満ちる力

詩編 8編1〜10節

 2021年が明け、私たちは新しい年を歩き始めました。今年は昨年から続く新型コロナウイルス感染拡大という状況にありますので、どこか新鮮さと喜びが薄められてしまったような気もいたします。しかし、主の年(アンノ・ドミニ)は確実に新しい年を刻んでいることを感謝し、この世界は確かに神が創られ、神が治めておられることを御言葉から聞いていきたいと思います。

 ご存じのように、旧約聖書の初めにある創世記の1章から2章にかけては「天地創造」のことが書かれています。ここを読むと、神は第四の日に太陽と月と星を造られたことがわかります。しかし当時の中東世界では、太陽も月も神格化されて拝まれるようになり、太陽も月も、その普通名詞(太陽はシェメシュ、月はヤーレアハ)が神をあらわす固有名詞のように使われるようになってしまいました。それで、創世記の1章(14〜16節)では太陽や月を「光る物」というように別の言葉を使って表しているのです。(因みに、創世記が書かれたのは、バビロン捕囚の頃、つまり紀元前6世紀頃です。)聖書によれば、太陽も月も星も神に創られたものであって、決して神々として崇拝される対象ではありません。

 詩編8編は、このような古代の神話的考え方を超えて、人間として、神の創造の御業を讃美する心を素直に歌っているものです。この詩の中心部4節から7節にそのことが明確に示されています。
「(4〜7節)あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。 神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、 御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。」

 ここには人間に「御手によって造られたものをすべて治めるように」と、神が創造されたすべての物の世話を任されたことが記されています。天体を創造された栄光に輝く主なる神が、その壮大な宇宙の中の小さく弱い人間に特別な恩恵と栄光を与えているということは、まったく驚くべきことです。私たち人間には大きな責任が伴っているのです。しかし今世界は、この神の御心に応えていないという悲しい現実があります。

 この詩の中では、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」という言葉が始めと終わりの二回繰り返され、神の創造の業の素晴らしさ、神の御名の力強さが強調されています。実際、今頃の季節は空気が澄んでいますので、冴えわたった空に月や星が神秘的な光を放って輝いているのを見ることができます。月や星だけでなく昼間に輝く太陽も、地球上のどこからでも見ることができます。大空に配置された神の御手の業であるこれらの荘厳な美しさは、民族や人種の壁を越えて、全地のあらゆる人々に神の力を賛美し、ほめたたえるものとなっているのです。
 3節の言葉「幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます。」は、ちょっと読んだだけではわかりにくいと思います。フランシスコ会訳聖書では「あなたは、みどりごや乳飲み子の口を、逆らう者を退ける砦とされた。敵とあだとを黙らせるために。」となっていて、こちらの訳の方が少し理解しやすいと思います。

 先ほど創世記の天地創造のことをお話ししましたが、神が天と地と、この世界のすべてを造られた時は、神に逆らう存在は何一つありませんでしたが、創世記の3章には人間を惑わす蛇という生き物が出てきます。また詩編2編をみると「(1〜2節)なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」という問いがありますので、この世に神の意思や御心に逆らう者が存在していたことがわかります。

 そして、神に逆らうこの存在は、武力や暴力によるのでなく「幼子や乳飲み子の口」によって、つまり幼子のような素直な神への信頼と讃美によって滅ぼされるのだと言っているのです。このことは、詩編の編集者の神に対する深い信仰を表すものです。イエスは、この3節の御言葉をエルサレムの神殿で祭司長や律法学者たちと論争した時に引用されています。
「(マタイ21:15〜16)祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。『子供たちが何と言っているか、聞こえるか。』イエスは言われた。『聞こえる。あなたたちこそ、“幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた”という言葉をまだ読んだことがないのか。』」

 イエスのこの行動を思い起こすならば、多くの詩編に、敵に対する激しい憎悪や憎しみや報復を願う表現があるのを読む時、その報復というのは必ずしも武力や暴力行為を伴っているものではないということがわかります。そしてそのことからもわかるのですが、古代イスラエルの民は、当時周辺に住んでいた諸民族のように軍事大国になることは、神に対する不信仰であると考えていました。少なくとも旧約聖書に出て来る預言者たちは、武力を行使して国を治める支配者たちは必ず神によって罰せられると警告しているのです。

 さらに、イエスが繰り返し語っていることがあります。幼子のようにならなければ天国に入ることはできないということ、幼子のような存在こそ、神の前で最も価値ある尊い存在だということです。(マタイ18:1〜5、マタイ19:13〜15、マルコ9:33〜37、マルコ10:13〜16、ルカ9:46〜48、ルカ18:15〜17等参照)イエスは、幼子のように神を信頼してすべてを任せて生きることが、神を信じる者の正しいあり方であると語っているのです。このことは、詩編の多くが、人間の無力さを自覚して、神への信頼を歌っていることからも明らかです。

 5節にある「人間は何ものなのでしょう」の「人間」という言葉は、弱いという言葉を基にして作られたもので、人間が神に比べていかに小さく弱い存在かを表し、人間は神の前に謙虚でなければならないことを思い起こさせる言葉ともなっているのです。その後に続く「人の子は何ものなのでしょう」の「人の子」は、「アダムの子」として一般的な人間の意味で使われています。

 創世記1章26節で、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」と言われた時の「人」はアダムです。ですから、「人の子は何ものなのでしょう」の「人の子」が「アダムの子」としての人類を指していることからも、詩編と創世記が深く対応していることがわかります。続く27節には「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあります。すべての人間は弱く小さい者ですが、本来神にかたどって造られたものなのです。

 そのように弱く小さい存在である人間ですが、6節にあるように、神から「栄光と威光を冠として」与えられていることをしっかり覚えておかねばなりません。そしてそれは人間の弱さや小ささを正しく理解し、幼子や乳飲み子が母を信頼して母にすがって生きるように、ただ神に信頼して生きるという、神の被造物としてふさわしい時に、冠としていただけるものなのです。ですから人間の中でも最もそのような神の力を明らかに示すことができるのは、実は幼子や乳飲み子のような弱く小さな存在であるという人間理解がここにはあります。これが聖書の示す人間観です。

 現代は人間の存在価値を貶めています。今、社会で起こっている問題の多くが、人間の価値をその人が持っている財産や能力や権力など目に見えるもので判断し、社会の役に立たない人を虐げ、排除しようとすることから生まれてきています。しかしここで聖書が教える人間観は、現代社会の在り方を真っ向から否定していることがわかります。

 人間は本来、神の形にかたどられ、ただ神より少し劣る者として造られ、万物をその足元に従わせる栄誉をいただいていたのです。しかし神への不従順のゆえに自ら死を招き、その栄誉を失ってしまいました。ところが神はこのような反逆児ともいえる人間を愛して、その救いのために道を備えてくださいました。すなわち神の御子イエスをこの世に送ってくださったのです。御子イエスは肉においては幼子のように弱く、霊においては幼子のように清らかで従順でした。神はこの御子の死と復活によって死を滅ぼし、御子の従順によって彼に栄光を与えられたのです。私たち人間は、ただ神が与えてくださった救い主イエスを信じることによってその救いにあずかり、幼子のように神を信頼して生きることができるのです。

 このイエスによる救いの御業を預言するものとして、ヘブライ人への手紙の著者は、この詩編8編を引用しています。「(ヘブライ2:5〜9)神は、わたしたちが語っている来たるべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。』『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」このように、詩編8編から、キリストの受肉と苦難と人間の救いを語っているのです。

 この視点に立ってもう一度この詩編を読み直すならば、3節の御言葉は、確かにキリストを預言したものとして理解することができます。私たちと同じように人間としてこの世に生まれられたイエスが、神の前に幼子のように素直に従順に生きられ、苦難を通って十字架に架けられたことと、その死と復活を通して栄光と威光を冠せられ、天に上って万物をその足元に置かれたことです。そしてこのことは単にイエス一人のことに留まるのではありません。御子が人間として生まれられたのは、御子を信じるすべての人を神の栄光に導くためです。

 この冬の冴えわたる美しい夜空の月や星を仰ぎ見る時、どうぞこの詩編の御言葉を思い出していただきたいと思います。「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」神の御業の壮大にして奇しいことは私たちの喜びでもあります。「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」神の愛は、壮大な宇宙の中の小さな人間の一人ひとりに及んでいます。

 そして神の御手の業は、小さな人間のみならず全宇宙に及びます。つい先日私たちは、小惑星りゅうぐうに着陸し小石や砂を持ち帰った「はやぶさ2」の6年に及ぶ旅とその帰還、そして再度旅立った姿に感動しましたが、それらを含めた大宇宙の隅々までも御手に治め、支えておられる神の御力を心から感謝し賛美したいと思います。新しい年、神の大いなる御力によって世界の救いがなされていきますよう、心から願っております。

(牧師 常廣澄子)