バプテスマのヨハネの働き

ルカによる福音書3章1節~20節

長く続いておりますコロナ禍の中での二回目の緊急事態宣言も、さらに延期となりました。どうか一日も早く、新型コロナウィルスの収束の日が来ますように、そして元の生活が取り戻されますようにと、わたしたちは祈りながら毎日を送っております。またさらに、今お休み中の常廣澄子牧師が、一日も早く全快されますようにと切にお祈りいたします。

ルカによる福音書からの説教を続けておりますが、いよいよバプテスマのヨハネの宣教開始を告げる3章に入ります。なお前回の説教は、少年イエスが十二歳の時に、両親に連れられての宮詣での際に、エルサレム神殿で起こった出来事を中心とした説教でしたが、本日の箇所は、それから17年~18年経った時の出来事です。

神による救済史を、三つに分けることがありますが、それは、「イスラエルの時」(旧約聖書の時代)、「キリストの時」、そして「教会の時」の三つです。そこにバプテスマのヨハネが登場したのは、「イスラエルの時」から「キリストの時」へ移ろうとしているその中間、すなわち“キリストの先駆者”(橋渡しをする者)として登場しました。

ルカ福音書の執筆者ルカは、“わたしたちの間で実現した、福音の出来事を、すべて初めから詳しく調べているので、順序正しく書いて、云々”と、1章の冒頭に記しておりますが、そこに、イエス・キリストの先駆者としての登場する、バプテスマのヨハネのことは、他の福音書と比べて、より詳しく記しております。なお、物事には先駆者ないし紹介者がいることが多いですが、これらの人々は、余り目立たず、また脚光を浴びることは少ないです。しかし、このバプテスマのヨハネについては別で、わたしたちに強い印象と、その役割の大切さを伝えてくれます。

では早速本日箇所に入ります。1節、2節、ヨハネの登場の時代背景を、世界史の観点から伝えています。(1)ローマ皇帝がテイベリウス(第二代ローマ皇帝で、AD14年~37年まで在位)の治世の第十五年、(2)ユダヤの総督はポンテオ・ピラト、(3)そして、各地方の領主について、ヘロデ(ヘロデ・アンテイパス)がガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラニヤと、トラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主(なお、これらの領主は、四分割された夫々の地方の領主だったため“四分封領主”と言われておりました)、そして最後(4)アンアナスとカイアファとが大祭司であったとき、と政治的時代背景を先ず記し、続いて、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」として、ヨハネの召命の出来事を伝えています。年代はAD28年頃とされます。

次は、ヨハネの宣教開始、当初の様子が、3節、4節にあります。先ず3節「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。なお、バプテスマのヨハネについて、当時の様子を伝えた記事が、マタイ福音書3章4節にあり、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」と紹介しています。一見、奇異な行動をとっていたヨハネのようにも思われますが、ルカ福音書では、飽くまでも、“メシアとして来られる主イエスの道備えをする先導者としての役割を中心に読者に伝えてくれます。

4節から6節は、イザヤ書40章3~5節から引用して、ヨハネが宣教開始当時、人々に教えを説き、悔い改めのバプテスマを勧めている、その意味合いを伝えています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」とです。ここに引用された、イザヤ書40章は、イスラエルの民が捕囚地バビロンにあって、その苦難の意味を自らに問い、自らの罪ゆえに、今この苦難、試練の中にあると、預言者の主導の元で、自らを諭している箇所です。
なお、6節「人は皆、来るべき神の救いを仰ぎ見る」はルカ福音書だけの、さきのイザヤ書40章からの引用で、神の福音を伝えるメシア、イエスの先駆者として、人々に悔い改めを迫っている、ヨハネの働きを、ここにも見る思いがします。

7節から9節、バプテスマを授けてもらおうと、ヨハネの元に集まってきた群衆に向かってヨハネは告げます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(7節bから8節a)と、厳しい言葉で臨みます。なおここで、“蝮の子らよ”とは、邪悪な民であることを象徴的に表現した言葉です。さらに、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(8節b)と続けます。
繰り返しになりますが、バプテスマのヨハネが登場した当時、すでに旧約聖書の時代から、メシア到来の新約聖書の時代へと入ろうとしていた矢先でしたが、相変わらず「自分は選民イスラエル人だ」あるいは、「自分たちには父祖はアブラハムがいる」などと自負して、ちっとも悔い改めようとしていない状況を示しています。更にヨハネは民に向かって、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(9節)と告げます。ここで、“良い実を結ばない木”とは、「言葉だけで実行を伴わない信仰」を言っております。
わたしたちも、この言葉には身が引き締まる思いがいたします。「有言実行」でもよいですから、自分がい言った言葉には責任をもって、それを実行に移すことが必要です。そして“斧が既に根元に置かれている”とありますように、実行の伴わない言葉だけの者への神の裁きは、“待ったなし”です。

10節・11節、ヨハネの厳しい“悔い改めの勧め”を聞いた群衆が、危機感をもって、ヨハネに尋ねた言葉と、彼らへのヨハネの“教え諭しの言葉”が続きます。10節「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた」、この群衆の言葉に対し、ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物をもっている者も同じようにせよ』(11節)と勧めます。
以上、群衆がヨハネに尋ねたその問いは、理解できますが、ヨハネの教と勧めの言葉は、「え、え、そんなことが出来ますか、無理でしょう」と問い返したくなるような諭の言葉です。でもよく読んでみますと、“たとえ僅かばかりであっても、持っている者は、持っていない者に分けてあげる”分かち合いの精神、心がけが非常に大切であることが分かります。
東日本大震災、あの「3・11」から、もう数日で10年になります。“あの時の出来事を”、そして“自分自身があの時何をしたのか”、をお互いに、よく考える時としたいですね。

12節から14節には、徴税人、兵士が登場し、夫々ヨハネとのやり取りの言葉があります。「徴税人もバプテスマを受けるために来て『先生、わたしたちはどうすればよいのですか』と言った。」とあり、これに対して、ヨハネの勧めの言葉は、「規定以上のものは取り立てるな」です。お馴染みの徴税人ザアカイの話もあり、わたしたちにもよく分かります。
次は、兵士とのやり取りです。「このわたしたちはどうすればよいのですか」の問いに対してヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」この戒めの言葉は、今日の社会にもよく通じる言葉です。自分が置かれた地位や力に物を言わせて、良からぬ行動に走ってしまう、これは、日ごろのニュースに事欠きません。わたしたちも他人ごととせず、気を付けていましょう。

15節~18節からです。15節には「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」とあります。ここは、は当時の人びとが、旧約の預言者たちによって預言されていた、救い主メシアの到来を待ち望んでいたことに加えて、ヨハネが登場して、今まで説いてきた教や勧めの言葉を、危機感と期待をもって聞いていたがゆえの言葉です。
ヨハネは人々に向かって、いよいよ、核心となる勧めの言葉を伝えます。16節「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。――』、と先ず、自分と主イエスとの立場の違いを明確に伝えた後、さらに続けて、「その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」と伝えます。
ここで、ヨハネが施していた、“水によるバプテスマと”と、来るべきメシアなるイエスのバプテスマ、すなわち、“聖霊と火によるバプテスマ”の違いについて触れます。水によるバプテスマの由来は、旧約時代に“水によって汚れを清める”という儀式(民数記の19章11節、12節、19節、イザヤ書1章16節など)が由来で、それを、ヨハネは罪を悔い改める“悔い改めのバプテスマ”として人々に勧めたのです。一方、主イエスのバプテスマは、悔い改めのバプテスマを完成させるためのバプテスマとして、“聖霊と火によるバプテスマ”を施されるのです。それは“聖霊なる神の導きによって施されるバプテスマ”です。わたしたちも「罪に死に、イエス・キリストの新しい命に生きる」ためのバプテスマに授かりました。“火によるバプテスマ”は、来るべき“神の審き”を象徴的に表わしており、次の17節に説明されている通りです。

19節、20節には、ヨハネの最期のことが記されています。領主ヘロデ(ヘロデ・アンテイパス)自身の不倫の行為を、ヨハネに責められた、その仕返しとしてヨハネを牢に閉じ込めたのです(詳しくはマルコ福音書6章17節18節、マタイ福音書14章3節4節を参照)。

以上、バプテスマのヨハネの、主イエス・キリストの先駆者としての働きを見た参りました。
<お祈り>「父なる神さま、救い主イエスさまの到来を導いて、人々が皆、神の救いを仰ぎ見ながら、その救いに入れるように導いて下さった、バプテスマのヨハネの働きを感謝します。今日のわたしたちはさらに、救い主イエスさまの到来によって、福音を信じ、その救いに入れますことを感謝いたします。主イエスさまの御名によって祈ります。」

(牧師 永田邦夫)