イエスの荒野での誘惑

ルカによる福音書4章1節~13節

 コロナ禍による緊急事態宣言がさらに21日まで延長となっておりまして、一日も早い新型コロナウィルスの終息に向けて、すべての人が今どうすべきか、その意識を高め、協力し合っていくことができますように、と願っております。また常廣先生の病気の治療が順調に進み、全快へと向かわれますようにお祈りいたします。

 本日の説教は「イエスの荒野での誘惑」と題し、ルカによる福音書4章1~13節からです。神の子イエスが人としてこの世に誕生され、少年期を過ぎて、公生涯に入り宣教活動を開始される直前までの出来事が、本書の2章から4章前半までに記されておりまして、本日箇所は、その公生涯に入られる直前に、荒野で悪魔の誘惑を体験された、出来事です。
 なお、前回の説教は、「バプテスマのヨハネの働き」(3章1~20節)でしたが、本日箇所の4章に入る直前に、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたことと、イエスの系図について、の二つの記事が入っておりますので、この両者の要点を先に確認したうえで、本日箇所に入ってまいります。

 イエスのバプテスマの記事はルカ福音書には、わずか2節(3章21節22節)のみですので、罪のないイエスがなぜ、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられたのか、その経緯を、マタイ福音書3章13節~17節から確認しますと、イエスがヨハネの元に来られ、ヨハネにバプテスマを願い出られた、そのとき、「あなたがなぜわたしから」と、ヨハネはイエスのバプテスマを思い止まらせようとしました。しかしイエスはそれを振り切って、「今は止めないでほしい。正しいことはすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げ、ヨハネはこれに従ってイエスにバプテスマを施したのです。
 イエスが言われた“人として正しいこと”とは、神の子であって、罪のないイエスが、この世で、弱さを抱え、罪の中にいる人々に向って、御国の福音を告げ知らせるにつけ、罪のないイエスご自身が、人々と同じような苦難、苦しみ、そして、悪魔の誘惑を体験しようとなさったのです。“人として正しいこと”の言葉の中に、このことが込められているのです。
 そしてバプテスマ直後、「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」とあります。
 主イエスは、バプテスマによって聖霊に満たされ、さらに、御父と御子の関係がより確かのものになり、神はそのことをまた喜ばれたのです。

 次は3章23節~38節の「イエスの系図」についてです。さきに、イエスが受けられたバプテスマによって聖霊がイエスに降り、御父、御子の関係が深まったイエスですが、一方では、「肉によればダビデの子孫から生まれ」(ローマ書1章3節)とありますように、“ダビデの子”イエスを、系図の中に明記する必要があって「イエスの系図」を著わしております。なお、ルカ書の系図は、マタイ福音書のごとく、父祖アブラハムまでではなく、さらに“人類の祖”アダムにまで遡り、そして、神に至っていることを強調しています。それは、本書の特徴である普遍性を持つことです。
 以上を経て、早速本日箇所4章に入ります。1節には「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を、“霊”によって引き回され」とあります。この“引き回され”の表現からは、何かイエスは“嫌々ながら引き回された”印象を受けますが、これも並行記事のマタイ福音書4章1節には、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため“霊”に導かれて荒野に行かれた」とあります。“嫌々ながら”どころか、イエスさまご自身の意思で、目的をもって荒れ野に行かれたのです(福音書によって表現、ニュアンスが違うことを感じます)。

 ではバプテスマの直後に、なぜ、誘惑を受けるために荒れ野に行かれたのでしょうか。これも、バプテスマの時と同様に、イエスさまは、この世で人々に神の国の福音を伝えるにつけ、病気や、肉体的、精神的弱さを抱えた人々に寄りそい、その人々に、癒しや回復を与え、平安を与えるために、自ら進んで、人の弱さ、試練を体験するためだった、と解釈できます。
 2節「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」とありますように、人間的な“飢え渇き”を覚えられたそのときです。
 悪魔がイエスに近寄ってきて、3節「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と、初めの誘惑にかかります。しかし、イエスは悪魔の誘惑に対してはっきり言いました。4節「『人はパンだけで生きるものではない』』と書いてある。」と、申命記8章3節を引用して言われたのです。
 パンは人間が生きるために必要な、日ごとの糧です。“主の祈り”に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とあるくらいです。しかし、わたしたちが、人間として、真に生きるためには、“パン”だけでなく、主の口から出る一つ一つのみ言葉によって生かされるのです。

 二番目の誘惑が5節から7節にあります。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任せられていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』」と誘惑します。
 この誘惑は、“人の欲望が、地位や名誉、財産等にも向きやすい”、という弱さに付け込んだ誘惑です。なお、第一の誘惑は、“生きるために”という必然性に付け込んだ誘惑でしたが、二番目の誘惑は、それらが満ち足りているとき、陥りやすい人間の弱さに付け込んでの誘惑となります。
 第二次大戦が終わった直後は、人は食べていくのに精いっぱいでしたが、それが満ち足り、豊かになった後は、人間の欲望は、さらに高みを目指し、いろいろな知能犯が横行するようになりました。そこに悪魔は、“わたしを拝むなら”と、付け込み、“一切の権力と繁栄を”という言葉を使って、誘惑にかかってくるのです。わたくしたちは、気を付けたいですね。そして、悪魔が言った「もしわたしを拝むなら」は、神でないものを神とする、いわゆる“偶像礼拝”になります。
 この悪魔の誘惑に対するイエスの返しの言葉が、8節「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、申命記6章13節を引用して悪魔に答えました。神でないものを神として拝む、これは人間の陥りやすい罪であることは、わたしたちも承知しています。これからも気を付けていきたいですね。

 最後、三つ目の誘惑が9節~12節にあります。その誘惑の言葉は9節から「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。“神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる”また、“あなたの足が石に当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。”』」とあります。
 少々長い誘惑の言葉ですが、直前の二番目の誘惑に対し、イエスが、“あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ”と、「神」、「主」という言葉を使われたことに付け込み、悪魔は今度は、イエスを神に近いエルサレムの神殿に連れて行き、屋根の端に立たせて、誘惑を試みます。
 また、この悪魔の誘惑の言葉の中に、かっこ書き、“ ”で囲った言葉が二か所あり、順番に、詩篇91篇11節からと、91篇12節からの引用です。その詩篇の言葉は、神の愛にしっかり身を寄せ、神を信じている人は、たとえ、自分の身に危険が迫っても、神がその危険から身を守ってくださると、悪魔は、なんと聖書の言葉を用いて誘惑してきます。
 この誘惑に対してイエスさまが、悪魔を諭して言われた言葉が12節、「あなたの神である主を試してはならない」でした。これは、申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」からの引用の言葉ですが、さらに下線部分、“マサにいたとき”についてを辿っていきますと、イスラエルの民が、出エジプトを果たした時の出来事にたどり着きます。それは、シンの荒れ野に来たとき、水がなくて飢え渇きを覚えた民が、モーセに対して、「われわれをここに導きだし死なせる気か、これならエジプトにいたときのほうが増しだった。」と責めたてたのでした。そして、モーセはさらに神に訴え、神は岩から水をほとばしり出させた、その出来事が“主を試す”出来事(出エジプト記17章1節~7節)だったのです。
 このイエスの言葉を最後に、悪魔はイエスの元から離れました。13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」とあります。この“時が来るまで”とはイスカリオテのユダがイエスを裏切る、あの誘惑の時、あるいは、十字架の時、とも言われております。

 以上、少々長くなり、また手の込んだ悪魔の誘惑の言葉が続きました。悪魔は、人が弱さを抱えているとき、また危機状態にあるときに、言葉巧みに付け入ってきて、人を誘惑します。これは先にも触れてきましたが、今日の社会でもそうです。それと、悪魔はどこか遠方から来る、というよよりも、極わたしたちの身近にいるものです。

 本日箇所で、イエスさまが受けられた誘惑の目的は、すでにお分かりいただているとおりですが、その悪魔(人を誘惑する相手)は、(1)人が生きていくために必要なパン、最も身近で必要なものに対して、(2)次は人が生活に満ち足りているときに陥りやすい欲望、たとえば名誉欲、金銭欲等々に、また(3)わたしたちの信仰にさえ付け入って、“主を試す”ことをします。
 これらに対して、御子エスさまが対応を示されましたように、わたしたちはこの世にあって、イエスさまを見習いながら、しっかり信仰に生きていくことができますように願っております。

<お祈り>
主なる神さま、わたしたちは信仰をもっていても、内にある弱さのため、外からの誘惑に、つい負けそうになってしまう弱さがあります。どうか、あなたの愛と御力でいつもわたしたちを守っていてください。そして、より一層、あなたの福音を延べ伝えていく者とさせてください。
主イエスさまの御名を通して祈ります。アーメン

(牧師 永田邦夫)