イエスのガリラヤでの伝道開始

ルカによる福音書4章14節~30節

 コロナ禍にあって、わたくしたちは会堂での礼拝が出来ず、引き続き家庭礼拝を余儀なくされております。一日も早く、元の会堂での礼拝に戻れますようにと願っています。また緊急事態宣言は果たしてこの21日で解除されるのでしょうか。また、常廣澄子牧師の健康が一日も早く全快されますようにと祈ります。

 本日も、ルカによる福音書から、標記の通りの説教です。イエスさまがガリラヤで伝道を開始され、さらにナザレに来ての伝道の様子を伝えている箇所です。なお前回は、バプテスマ直後に“聖霊に満ちて”ヨルダン川から帰られた後、さらに荒野に行って“霊”によって悪魔からの試練を受けられた、その出来事からの説教でした。
 早速、本日箇所に入ります。冒頭14節に、「イエスは“霊”の力に満ちて」とありまして、聖霊に満たされて荒野での試練の後、ガリラヤ伝道においても“霊”の力に満ちての伝道開始です。そもそもイエスさまは、聖霊によってマリアの胎に宿り、誕生し、そして聖霊の導きで、今日の伝道開始に至っております。
 使徒パウロも、コリント伝道の始めに「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」(コリントの信徒への手紙2章4節)と、“霊”の大切さを伝えています。

 本日箇所の内容に入っていきます。ルカ福音書では、イエスさまの伝道スパンを三つに分けて、まず、ガリラヤ伝道、サマリヤからエルサレム入場まで、そして、エルサレムでの伝道、の三区分としております。
 14節、15節、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」とありますのは、先ほど示しました通り、これから始まる“ガリラヤ伝道”(9章50節まで続く)の全体に係る、紹介と説明を兼ねた言葉であって、これはルカ福音書の著者ルカの手法でもあります。

 次は、16節からの段落に入ります。冒頭にあります「ナザレで受け入れられない」の見出しの言葉が気になるところです。
 16節a「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、云々」と、これから礼拝が始まります。当時の礼拝は神殿ではなく、会堂(シナゴーグ)で行われていて、その順序は、「信仰告白」から始まり、「祈り」、「聖書朗読」、続いて「説教」、「祝祷」そして「施し」(献金)で構成されていました。なお、聖書朗読と説教は同じ人が担当するのが普通だったそうです。

 16節b、17節「聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」とあります。次の18節、19節に移ります。ここは、イザヤ書61章1節、2節からの引用の言葉です。
18節の初めの3行「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」とあります。“貧しい人に”とは物質的に貧しい、ということではなく、“霊的に、宗教的に謙虚な人”という意味です。そのような人に御国の福音を伝えるために主なる神が、わたしに油を注ぎ、わたしを召し、遣わされた、ということです。さらに具体的に、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の解放を告げ、圧迫されている人を自由にし」とあります。
 ここで、“捕らわれている人”とは、精神的に自由がなく、何かに捕らわれ、自由を奪われている状態を言います。“目の見えない人”も同様に、霊的に、心が閉ざされていて、物事の真理が見えない状態の人で、そのような人の心の目を開き、視力を回復してくださる、と告げます。最後は、“圧迫されている人”これも、目に見えない束縛や、圧力を何時も外から受けている人に対して、その圧迫から開放してくださる、と言います。

 最後は19節に、「主の恵みの年を告げるためである。」これは“ヨベルの年”といわれる、レビ記25章10節からの引用の言葉です。志村教会でも、伝道開始50周年誌に「ヨベルの年を祝う」との副題があるのが目立ちます。
 以上、聖書朗読が終わって、20節「イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあり、イエスの一挙手一投足に人々の目は釘付けになって、辺りは一瞬、シーンと静まり返っていた様子が目に浮かびます。21節「そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」とあります。“席に座られた”は、前述のとおり、聖書朗読に続き説教の席に座られたときです。

 このときイエスさまが言われた「今日、あなたがたが耳にしたとき、」は、“たった今、この時”という意味です。先に朗読された、イザヤ書61章からの引用の言葉を受け、ご自分のこの聖書朗読の瞬間に、旧約時代からの諸々の束縛から、たった今、あなたがたは解放され、そして自由の身となったのですよ、とのイエスさまの宣言の言葉です。
 序ですが、今この時、とか時間の概念について、ギリシア語は、長く続く時間の単位には、「クロノス」が当てられれ、「たった一回限りの時」には「カイロス」が当てられています。このイエスが聖書朗読の後に言われた「今日、これこれのとき」とは、後者のカイロスです。主イエスが、最後の晩餐の席で(ルカ福音書22章34節、ほか共観福音書すべて)、ペトロに対して、「あなたは今日、鶏が二度、鳴く前に、三度、『わたしを知らない』というだろう」、といわれた、今日、の時は、カイロスを指します。

 22節、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」とあります。ここでの人々の声、“ヨセフの子ではないか”には、賞賛の意味と、また一方、その逆の意味も含まれていたことでしょう。すなわち、“たかがヨセフの子ではないか”の意味にもとれるのです。因みに岩波版聖書では、「しかし彼らは繰り返し言った『この者はヨセフの息子ではないか』」と記しています。
 23節から27節には、この後者すなわち疑念を抱く人々に対しての、イエスさまの反論的な説明の言葉が長く続いています。23節「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、“医者よ、自分自身を治せ”ということわざを引いて、“カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ”と言うにちがいない。』」とあります。
 ここでイエスが例に引いていることわざ「医者よ、自分自身を治せ」は、“医者は他人のことばかりで、自分のことになると不養生になるもの”との意味です。イエスはナザレの人々に向かって言いました。“ほかの場所で伝道や癒しを行い、人々の評判を得るよりも、郷里のこのナザレで行ってくれ”と、あなたがたは、このわたしに向かって言うに違いない、と言っているのです。
また、「カファルナウムで、いろいろのことをした」とは、“水をぶどう酒に変えた奇跡”(ヨハネ福音書2章1節~12節)や、王の役人の息子の病気を治した出来事(ヨハネ福音書4章46節~54節)などを言います。
 以上を例にあげ、24節に「──、はっきり言っておく、預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ。」とあります。イエスが言われている意味は、“奇跡とか癒しのわざを期待する前に、まず、相手を信頼し、そして信ずる信仰が大切ですよ”、と言っているのです。「イエスはヨセフの息子ではないか」「大工ではないか」等々言っているようでは、残念ながら、イエスを救い主として、未だ受け入れていないのです。

 25節から27節まで、イエスさまは、旧約聖書から、“預言者が自分の故郷のイスラエルでは受け入れられなかった”事例を二つ挙げ、ご自分のことと重ねながら説明します。先ず初めは預言者エリヤのことです。25節26節には「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六カ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」とあります。これは列王記上17章1節~16節からの引用で、エリヤ(前9世紀の北イスラエルの預言者)は、イスラエルの民の不信仰ゆえに、神は、その罰として数年の間、干ばつを来たらせると、アハブ王に告げましたが、王からの仕返しを恐れ、身を隠していました。最後はシドン地方(異邦人の地)のサレプタのもとに行き、エリヤは自分の飢えを凌ぐことができた逸話です。

 預言者エリシャの話が27節に、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」(列王記下5章1節~27節より引用)とあります。エリシャはエリヤの後に出てきた預言者ですが、当時、重い皮膚病の人が多くいて、敵国シリヤの将軍ナアマンもこの皮膚病だったので、癒してもらおうとエリシャのもとを訪ねました。エリシャはナアマンに対し、「ヨルダン川へ行って、その水で七度身を洗い清めなさい」、との指示を与え、ナアマンは行ってその通りに行ったため病が癒された、という逸話です。

 28節~30節、主イエスのこれらの話を聞いた会堂内の人々はみな憤慨し、総立ちになってイエスを外へ追い出そうとしたのです。イエスさまは、間一髪、人々の間を通り抜け、立ち去られました。ナザレすなわちご自分の生まれ故郷での伝道は、悲しい結末となりました。でも主イエスさまはその後、全世界の人々のための救い主として、広く福音をお伝えになりました。

〈お祈り〉
主なる神さま、わたしたちも神さまからの“霊”に満たされ、力をいただき、さらに聖書のみ言葉に生かされながら、福音の証人として、これからも伝道に励むことができますようにお導きください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン

(牧師 永田邦夫)