神の御手の下で

ペトロの手紙一 5章1〜14節

 本日から受難週に入ります。どうかこの受難週の一日いちにちの歩みが、私たちの救い主イエスの御業を感謝し、イエスの御生涯の最後の一週間をみ言葉と共にたどる日々でありますようにと心から願っております。

 今朝はペトロの手紙一の最後の5章から聞いていきたいと思います。まず「(1節)さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。」ここには長老と書かれていますが、私たちの教会では執事として選ばれている方々とか、教会制度の中で牧師と協力して教会のいろいろなことに責任を持つ方々のことを言っています。しかし私たちはバプテストの群れであり、万人祭司という精神がありますから、教会の中の誰彼を区別するのではなく、すべての信徒に向かって語られている個所として読んでいくのが良いと思います。

 ペトロはこのように勧めています。「(2〜4節) あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」この前の4章17節には「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」というペトロの言葉がありましたが、このペトロの手紙一は、迫害する人々のことよりも、迫害される側である教会の姿について多く語っています。真実に神の教会らしく生きているかどうかが問われているのです。神の前にあって、私たちの弱さや不信仰をどう乗り越えていくかは、この当時の問題だけではなく、今も同じで、いつの時代でも私たち信仰者の課題だと思います。

 ペトロはここで「(5節)同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」と教えています。「皆互いに謙遜を身に着けなさい。」これが教会を形作っていく時に、皆が学ばなくてはならないことだと語っています。謙遜というのは譲り合う精神です。なぜなら人間はだれもが自分の考えていることが一番正しいと思いがちで、人の意見よりも自分の思いや考えを優先し、自分が思っているように進むことを願う者だからです。人間はなかなか素直に人の意見を聞いて受け入れることができない者であるという人間の本姓をペトロはよくつかんでいます。謙遜という衣をいただいて「身につけなさい」つまり、身体にしっかり結び付けておきなさいということです。これは、教会がこの世にあって神の真理を宣べ伝えていくためには大変大切なことだと思います。

 どなたもきっと体験されたことがおありかもしれませんが、ある人が教会に来て説教を聞き始めますと、私たちはついあれもこれもとその方に伝えることが多くなります。それはある意味で善意ではあるかもしれませんが、教会のことや聖書のこと、信仰のことなどいろいろとこちらから教えよう、こちらの言うことを聞かせようとしてしまうのです。人生論的な話はある程度わかったとしても、聖書が語る真理はなかなか難しいものです。信仰は一人で聖書を読んでわかるものではありませんから、その方なりに努力して教会の礼拝に出ておられるわけでしょう。そういう方がある時は壁にぶつかったり、疑問点が出てきたりするわけです。そんな時、その方といっしょに苦しみながら、その方の心に湧き出てきた小さな思いや言葉を拾ってあげることが大事なのです。教会はそういう謙遜という優しさを身に着ける所であるとペトロは教えているのではないでしょうか。

 ペトロはこの個所で自分は「長老の一人」だと語っています。ペトロは私たちも知っているとおり、イエスの12弟子の一人であり、後に使徒となって教会の中心的な働きを担った人です。その彼が自分もまたあなたがたの仲間の一人なのだと語っているのです。それだけではなく「キリストの受難の証人」であると言います。これはキリストの十字架のお苦しみに立ち会った証人、つまり目撃者であるということです。主イエスは十字架に架けられて死んでくださった、それを私ペトロはこの目で見たのだということをはっきり語っているのです。

 しかし実際、ペトロは主イエスが十字架に架けられた時、どこにいたのでしょうか。主が受けられた辱めや、愚かしい裁判の間、人々からお前もあの男の仲間だと指摘されると、あの人のことなど知らないと言い張ったのです。また、イエスの公生涯にずっと同行していたペトロは、イエスがご自分の苦難と十字架を予言された時には、私は死ぬまであなたにお供をしますと言って誓ったにもかかわらず、その言葉を裏切って、苦しみの中のイエスを見捨てたのです。

 ここでペトロが自分を「キリストの受難の証人」と語る時、その心の中ではどんなに苦い思いを噛みしめていたでしょうか。自分は苦しみの渦中にある師イエスを見捨てて逃げた卑怯者だと良くわかっていたのです。そのペトロがどうしてここで自分は「キリストの受難の証人」だと言えるのでしょうか。それは、イエスを見捨てて逃げたこんな醜い自分さえも、イエスは赦してくださり、どんなに深く愛していてくださるかがわかっているからです。イエスの十字架こそがその尊い愛の証しであるとわかったからです。主イエスの受けてくださったお苦しみというのは、そのような尊い愛に満ちたお方さえも見捨てて自分の保身を願う身勝手で利己的な私たち人間の情けない姿を覆い隠してしまうほどの大きな愛であったということなのです。これが本日からの受難週の一番大事な核心です。

 私たち自身の信仰を考えてみるならば、私たちはとてもペトロを笑うことなどできません。二千年前の主イエスの十字架は、今の私たちに関係ないことではないのです。私たちはペトロ以上に自己中心で利己的で神に愛されるにはほど遠い者でした。そのような私たちのために、イエスはゲツセマネの園で血の汗を流して祈られたのです。私たちのために十字架の苦しみの死があったのです。だからその愛を信じて受け入れた私たちは、たとえ今どんな神の裁きがあったとしても、その裁きに耐えることができます。それは私たちが神の御手の下で守られているからです。

 その後に書かれている「やがて現れる栄光にあずかる者」という言葉も、同じようにペトロの体験した事実に裏付けられたものとして解釈することができます。福音書(マタイ17章1〜8節、マルコ9章2〜13節、ルカ9章28〜36節)が伝えるところによりますと、主イエスが弟子たちと山の上に上っておられた時に、突然イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣が光のように白くなった。そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」という声があったという事件です。この時、イエスの傍にいたのは、ペトロとヨハネとヤコブだけであったと書いてあります。ですから、ペトロにとっては未来において現れるイエスの栄光というだけでなく、すでに現れてくださった栄光のイエスの証人でもあるということなのです。主イエスはただ十字架に架けられて殺された罪人ではなく、山上の変貌というすばらしい体験をなさったお方である。主イエスは十字架に架けられ、墓に葬られたけれども、墓からよみがえられ、死から復活されたお方である、そのことを信じる者もまたその栄光に与る者なのだ、ここでペトロはそのように力強く語っているのです。そしてやがていつの日か明らかになるキリストの栄光の日、私たちもまたその素晴らしい救い主イエスを信じる信仰によって、その栄光に与らせていただくことができるのです。

「(8〜9節)身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」この手紙が書かれた当時、広大なローマ帝国のいたるところに主の教会が広がっていきました。主イエスを信じる者たちがその救いの福音をどんどん宣べ伝えていったからです。13節に「共に選ばれてバビロンにいる人々」と書かれていますが、このバビロンとはローマのことだと言われています。ローマをかつてユダヤ民族を滅ぼしたバビロンに例えているのです。そのローマ帝国が教会を攻め滅ぼそうとして、教会への激しい迫害を加えたことも事実です。「(9節)あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」と書かれているとおりです。ですから、この手紙は、あなた方だけが苦しい思いをしているのではないのだ、どこで、どのように生きていようが、キリストを信じて生きていこうとする時には戦いがあるのだ、ということ伝え、励ましているのです。「それはあなたがたも知っているとおりです。」この手紙を読んだ人たちにはきっと思い当たることがたくさんあったのだと思います。

「(9節)信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」これは大変厳しい言葉ですが、「抵抗する」ということだけで考えれば、ミャンマーをはじめとして今も世界の各地で、理不尽な政権側に抵抗している方々がたくさんおられます。「抵抗する」というのは「立ち続ける」「踏み留まる」ということなのです。私たちは信仰にしっかり立ち続けることが大切なのであって、風の吹くまま気の向くままに流されてはいけません。信仰の偉人と言われる方々の伝記を読むと気づくことがあります。それは彼らの信仰が何か他の人とは突出して偉大で立派だったというのではないからです。そうでなく人生の荒海を悩み苦しみながらも、信仰の立つべきところにしっかり立ち続けて生きていたからできた偉業が多いのです。

「(6〜7節)だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」これが謙遜の心なのでしょう。いつどこにあってもイエスを信じる者は神の力強い御手の下にあるのです。だから思い煩っていることを何もかも神に委ねることが大切なのです。

 神を信じていると言いながら、いつも何かしらぴりぴりして苛立っているような方がおられますが、苛立つことこそが思い煩いのしるしです。思い煩いの根っこには自分の思いを優先する気持ち、自分の手で解決しないと気が済まないという気持ちがあるからです。そういう思い煩いを神に委ねなさいと勧めているのです。ではどうしてそう言えるのでしょうか。それは「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」神が私たち一人ひとりのことを心にかけ、顧みていてくださるからなのだと。他に特別の理由は何もありません。他の誰でもない神さまが、神さまご自身が私たちのことを顧みていてくださるのだからもう心配するのは止めなさい、もうそれでいいのだというのです。このみ言葉を読むと、人間の罪深い狭い心に寄り添っていてくださる神の大きな愛と優しさをひしひしと感じます。

 そして最後にペトロは言います。「(12節)これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。」私たちが立ち続ける場所は「まことの恵み」のある場所、つまり「神の御手の下」にいることなのです。受難週の日々、キリストの贖いを感謝し、まことの恵みの中を心からの感謝をもって歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)