生命の畏敬

マタイによる福音書 5章17〜26節

 新型コロナウイルスやその変異ウイルスの感染拡大防止のために「まん延防止等重点措置」が東京都に適用されましたので、礼拝堂での礼拝が休止となり、皆さまには家庭礼拝をお願いすることになりました。変異株ウイルスは感染力が強いそうで、重体になる方も多くて、今社会は大変厳しい状況にあります。新型コロナウイルス感染症で亡くなられる方も多いですが、愛する家族と最後にお会いすることもかなわずに天に召されるということは、どんなに辛いことでしょうか。私たちはこのところ、人の命について考えることが多くなりました。

 出エジプト記の20章には、モーセの十戒が書いてありますが、その第六戒には「殺してはならない。」という戒めがあります(出エジ20:13)。そしてその後には「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「隣人に関して偽証してはならない。」「隣人の家を欲してはならない。」というように、人間社会の倫理規定が続けて書かれています。

 今朝はその人間社会における倫理規定の中でも、一番最初に書かれている教え「殺してはならない」という殺人の禁止についてご一緒に考えてみたいと思います。殺人の禁止というのは、つまり命を大事にすることです。今朝お読みいただいたみ言葉は、以前にも二回にわたって細かくお話しさせていただきましたので、覚えておられる方もあると思います。律法の完成者と言われるイエスが、神が人間に与えられた律法の本質を易しくお語りになっている箇所です。

 イエスは21節で「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」と語っておられますが、殺人を犯した人は、罪としては最も重い刑罰で裁かれたのです。今もそうだと思います。殺人がいけないということは誰でも知っていることです。しかしどうして殺人がいけないのかということになると、その本質的なことについては私たちはあまりよく理解できていないのではないでしょうか。

 ドストエフスキーの作品の中に「罪と罰」という有名な小説があります。この話にはラスコーリニコフという大学で法律を学んでいる若者が登場します。貧しい彼は、下宿屋の老婆が強欲な金貸しであるのを理不尽だと思っているのです。そしてこう考えます。この老婆に大金は不要である。自分がこのお金を使って将来を成す人間として成長する方が世の中のためには有益だと。そしてその理論に基づき綿密な計画を立てて老婆殺しを実行するのですが、たまたまそこにいた老婆の妹をも殺してしまうという想定外のことが起きてしまったのです。

 詳細は省きますが、とにかくこの殺人を犯した後、彼は非常に悩み苦しみます。そしてその罪の呵責に耐えかねてついに自首し、遠いシベリアに流刑となってしまうのです。つまり、殺人という行為の実行にあたっては案外単純に行われたとしても、人間には良心があって、人の命を奪う行為に対しては心が痛み苦しむのです。どんなに立派な理論に基づこうが、どのような理由があろうが、殺人に関してはその行為を正当化されないものがあるのです。

 殺人というのは人間の命の尊厳を犯すことです。人間の命は神だけが創り出せるものだからです。どのような立派な人間であろうと、人間は人の命を造ることができません。自分の今ある命も自分で作り出して生まれてきたわけではありません。人の命は神秘的なものであり、神聖なものなのです。この神聖な命を人間はたとえどのような理由があろうと自由に勝手気ままに扱うことは許されないことなのです。

 人間の命を生み出し、再び取り上げることができるのはただ神だけです。従って殺人を禁止することを命じることがおできるのも神お一人だけです。この十戒の戒めが神の言葉であり、神からのご命令であることからもそれは分かります。人間の命は他のなにものにも代えられない尊いものです。誰であろうと、その人の命の代わりはありません。どんな宝物を差し出してもその人の命に代えるものとしては値しないのです。人の命がそれほどに尊いもの、価値あるものであることを私たちは知らねばなりません。そしてこのことがわかる時にはじめて殺人の罪の大きさがわかるのです。

 人間の命の尊さについてさらに考えてみたいと思います。人間は霊的な存在で、他の動物に勝るものとして造られました。創世記の創造物語には、神は人間を神の像にかたどって造られたと書かれています。そして神からの委託を受けて、この世界の統治を委ねられてきたのです。しかしながら人間そのものは、この世に生まれてきて、また死んでいく被造物に過ぎません。肉体の命は永遠に続くものではないからです。しかし、そのような人間に神は大きな使命を与えました。人間は神からの委託に応え、仕える任務を持っているのです。それが人間が他の動物と異なる特権です。また人間存在は、神の命令や神の期待に応答することにあります。この神との応答性が人間の持つ特別な役割でもあります。人間は霊的な存在だと言いましたが、その霊性は神との間において働くのです。

 そして、人間に与えられた霊性を通して、神と応答しつつ生きることによって、人間の人格が形成されていくのです。ですから一人ひとりの人間存在には素晴らしい存在価値があるのです。神がその創造の御業を成される時に、神の意志によって人間をそのように尊く創造されたのです。神は一人ひとりの人間が大切であり、、一人一人の人間に期待しておられるのです。人間の価値は人が決めるのではありません。ですから人の命やその存在に干渉したり、ましてやその存在を無視したりその命を奪ったりすることは許されないことなのです。

 人間の命の主は、創造者である主なる神です。神が私たち人間の霊的支配者です。そういう意味で人は人を支配してはならないし、人間は神以外の何者の奴隷になってもいけないのです。人間を造ってくださったのは神ご自身でありますし、人間の命の尊厳はただ神との関係において真実なのです。人間の存在と命は、ただ神のみ手の中にあります。だから私たちは神の目に聖く尊いと言われるのです。

 人の命を奪うことを禁じることは、神からの命令です。人間の意思や思想から出ているのではありません。いったい人間はどんな権利で他人の命を奪うことができるのでしょうか。自分のであれ他人のであれ、神が造られた命を自分勝手に処理できると思うことは神の領分を犯すことなのです。命に対する畏敬の念を知らないことです。

 この広い宇宙にただ一人しか存在しない大切な命に対する存在価値を改めて見直したいと思います。私たちの命はただ一回限りの人生を許された尊い命です。神から与えられたこの命の尊厳に襟を正したいと思います。自分の人生の姿勢を正すためには、自分を大事にし、神に応答しながら生きていくことです。そうすることで他人の命に対する畏敬の念も生まれてくるのです。「殺してはならない。」これは禁止命令ではありますが、その命令をお出しになった神のお心は、むしろ「命を大切にしなさい。」という教えです。すべての人の命に対する畏敬の教えです。

「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」創世記4章8節には世界で初めての殺人が書かれています。それに対する主の言葉が10節に書かれています。「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。』最初の殺人者カインは神の罰を受けなければなりませんでした。出エジプト記21章12節には「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」とあるとおりです。

 世界には多くの国があり、多くの人種や民族が暮らしています。人間がこの地上でそれらの人々と共に存在していくために知るべきことは、自分の命はもとより、他のすべての人々の命が尊いこと、命に対する畏敬の念を持つことです。それが神の前で生きる人間の基本的な態度です。

「殺してはならない。」この戒めについて、大変積極的に人間の心の奥にある思いを説かれたのがイエスです。そしてその解釈が書かれているのがこの個所です。ただ「人を殺す」という行為だけに重点をおいているのではなく、人を殺すという行為の奥にある深い理由や動機を指摘しているのです。その根底にある動機というのは、怒りや憎しみや悪口等、人の心に巣くう悪しき思いです。人を殺すという行為は、単に武器や暴力を用いてするだけではありません。怒りや憎しみの心、またその表れであるいじめや悪口などによる冷たい言葉も人を殺す行為となるのです。最近もテレビの番組に出ていたある若い女性の方が、ネットによる中傷で深い心の傷を負われて自死されてしまわれました。これはまさに言葉による殺人です。

 イエスは事柄の本質を鋭くとらえています。人を殺す行為は人間の深い内面から出てくるのです。
人を殺すという行為は、要するに人間の命や存在への憎悪であり抹殺ですから、人の心の中で起こる憎しみや悪意はそのまま殺人行為に通じているということなのです。他人の命や存在を愛することができないところには、ただ恨みや妬みや憎しみがあるだけです。それはやがて悪口や怒りに変わり、ついには具体的な殺人にまで発展していくのです。

「殺してはならない。」これは神の絶対的な命令です。肉体的にも精神的にも、人が人を否定したり、抹殺したりすることはできないということを教えているのです。イエスの言葉からはこの神の根本精神が明らかになっています。この意味がわかってくる時、私たちの人間関係は大いに反省させられるのです。

 今世界各地で起きている紛争や戦争のことを考えてみたいと思います。悲しいことに人間がいる所、争いや戦争が止むことがありません。戦争は人間同士の不和、対立、憎悪の表われです。人と人の憎しみや対立が、民族と民族、国と国の争いに発展していきます。人間の罪の深さ、大きさを思います。戦争によってどれだけ多くの命が殺されているでしょうか。戦争はどんな理由があろうと正当化することはできないのです。「正義のための戦争」「愛のための戦争」「平和のための戦争」そのような名目の戦争はあり得ません。人間は戦争によって「互いに殺しあってはならない。」のです。戦争を引き起こす根本的な人間の罪の姿に目覚めることなくして、戦争のない平和な世界を作り出すことはできないのではないでしょうか。

 いろいろ語ってきたこれらのことは、真の神の存在を信じるところに、神が造られた命への畏敬の思いが生じてくるということです。私たちが信じているイエスは、今、不和や争いの中にいるすべての人間のために和解の力となられたのです。「殺してはならない。」は正しく神からの命令です。神の光のもとで、私たちはあらゆる争いの正しい解決の道へと導かれます。神の前でお互いに一人ひとりの命に対する尊敬の心を持って生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)