神は一羽の雀をも

マタイによる福音書 10章26〜31節

 教会の庭には、椋鳥やシジュウカラなど、いろんな鳥が飛んできて、芝生のあちこちで餌をついばんだり、しばし遊んでからどこかに飛んでいきます。その中には可愛い雀もいます。お隣の神社の境内にそびえる杉の大木にはカラスがたくさんいます。何年か前、プランターにチューリップの球根を植えたことがありましたが、次の日に教会に来たら、球根が全部土からほじくり出されていたことがありました。カラスの仕業でした。私が植えているのを木の上からじっと見ていたに違いありません。かしこい鳥です。ゴミ集積所のごみ袋を破って散らかしたり、人間に嫌われることをするので、カラスが好きだと言う人はあまりいないと思います。でも「カラス、なぜなくの、カラスは山に かわいい七つの子がいるからよ」と童謡で歌われていますし、今テレビで人気がある「チコちゃんに叱られる」には「キヨエちゃん」というカラスが登場して人気者になっています。愛嬌ある鳥なのかもしれません。

 今朝の御言葉には雀が登場します。雀は「雀の学校」という童謡に歌われているくらい、昔からどこにでもたくさんいた鳥でしたが、最近はあまり見かけなくなりました。住む場所がなくなってきたせいかもしれません。そして見かけても最近の雀は本当に体が小さくなりました。今朝の御言葉は、そんな小さな雀の命にまで心を配られる神の深い恵みを語っています。

 今は鳥の話題を取り上げましたが、神が造られた自然界にはいろいろな生き物がいてそれぞれの知恵や力を使って生き延びています。鳥も動物も昆虫もみんな弱肉強食の世界に生きていますから、子孫を残すために必死で生きているのです。しかし、人間世界においては弱肉強食のルールがまかり通ってはいけないと思います。ただ、人間は生きていくために、動物でも植物でも、他の生き物の命をいただいています。他の生物の命を御馳走になっていることを忘れてはいけないと思います。

 旧約聖書の時代には、神殿では人間の罪の贖いをするために他の動物たちの命を犠牲にしました。しかし普通に人々が家畜の肉を食べるのはお祭りの時ぐらいで、今のようにいつでも食べられるわけではなかったようです。日常生活でのタンパク質はもっぱら羊や山羊の乳製品でした。雀は家畜ではありませんし、わずかな肉しかついていません。けれども、人々が比較的手軽に買って食べられたのがこの雀の肉だったのです。鶏肉の一種だということです。雀は雑草の小さな実や小さな昆虫を食べて暮らしていますので、当時はたくさんいたと考えられています。

 29節にあるように、市場では雀たちが二羽で一アサリオンという値段で売られていました。一アサリオンと言う貨幣は、最小の貨幣単位でした。当時、労働者が一日働いて手にする賃金が、大体一デナリオンと言われていましたが、一アサリオンはその一デナリオンの16分の1の値と言われています。雀の値段は大変安かったのです。英語聖書では「たった1ペニー」と訳していますが、安いことを強調するためにはよい表現だと思います。また文語訳聖書では「二羽の雀は一銭にて売るにあらずや」と訳しています。一銭という値段も本当に安いものだということがわかります。しかし貨幣価値は時代と共に変わりますから、今の値段だといくらくらいかを推測するより、ここでは二羽を一組にしてはじめて値がつくようなつまらないものと理解するのが妥当かもしれません。

 ところで、この聖書箇所の並行個所であるルカによる福音書12章6節には、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。」と書かれています。ここでは「二羽で一アサリオン」ということですから、四羽で二アサリオンです。五羽の雀が二アサリオンということは、残りの一羽はおまけとしてただでくれた雀だったのかもしれません。その程度の価値しかない雀だということですが、そのようなおまけの一羽であったとしても神の御前には忘れられてはいないのです。

 この個所では人間が雀を捕ることも、雀を食料にすることも禁じられていませんし、非難もされていません。雀を捕獲しようとする人たちは、きっと夕方、雀がねぐらにもどった頃を見計らって、網をはって効率よく追い込んで捕まえたのでしょう。雀がたくさんいたからだと思いますが、そうでなければこのような安い値段では売ることはできなかったことでしょう。「(29節)だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」ここで「雀が地に落ちる」ということは、網にかかった雀が自由を奪われ、地上で集められるからです。地上に落とされた雀は突然の不慮の死を迎え、市場で売られて、ついには人間の食卓のために調理されてしまうのです。

 山上の説教の中で、イエスは「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と神の守りを説いていますが(マタイによる福音書6章参照)、人間の食料になるために地に落とされた雀は神から見放されてしまったのでしょうか。この疑問にイエスは真正面から答えておられます。それを明確に読み取るために10章29節の後半部分をギリシア語の原語でみてみると、原文に忠実に訳されているのは岩波版聖書です。「しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」となっています。大事なのは「雀は父なしに地上に落ちない。」というところです。

 実は、今までの日本語訳聖書では、明治時代にできたヘボン訳聖書から文語訳聖書でも、口語訳聖書でも、新改訳聖書でも、今朝お読みした新共同訳聖書でもずっと、「あなたがたの父の許しがなければ」というように「許し」という言葉を入れて訳してきたのです。このように訳しますと一見、神の全知全能の力を強調していて敬虔な感じがします。しかし考えてみますと、雀が地に落ちることをその度に神が許可を与えるなどというのは、何だか神が専制君主のように君臨しているかのようです。

 イエスが言われた言葉は、原文が語るように「しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」ということです。神は高みにおられて、雀が地上に落ちるのを一羽一羽許可しているお方ではありません。神ご自身が地上に落ちる雀と共におられるのです。神ご自身も一緒に地上に落ちられたのです。神は一羽の小さな雀の存在を知っておられ、いつもその歩みに伴っておられるのです。ですからその後に、「(30節)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」という言葉が続いているのです。ここでは神が、私たちの髪の毛の一本一本までも認識しているということを強調しているのではなくて、神は地上に生きる私たちのように弱い人間の人生のすべてを心に留めていてくださり、私たち一人ひとりに関心を向けておられる慈愛深いお方であるということを伝えているのです。この言葉はイエスでなければ語れなかった神ご自身の人間に対する御心だと思います。

「(31節)だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」社会の中で何の価値もないとみなされているこのような小さな雀でさえも、神は御心に留められ、神の御手の中で守られているのだから、人間であるあなたがたはなおさらのことではないか、何も心配することはないのだ、と神の愛と守りを説いておられるのです。

 この個所には「恐れるな」と言う言葉が何度も出てきます。「(26節)人々を恐れてはならない。」また「(28節)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」今の新型コロナウイルス感染まん延の事態の中で、私たちは必要以上の心配をしているのではないでしょうか。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、と先のことばかり心配しているならば、肝心の今が台無しになってしまいます。今私たちには果たすべき責任があるのです。例え不完全であっても、神から与えられた仕事、使命を自分なりに一所懸命果たそうとしているならば、神は必ず私たちを守っていてくださいます。その事を信じて精一杯力を尽くして生きていきたいと思います。

 私たちの人生においても、これらの雀のようにある日突然命を落とすことがあるかもしれませんし、あるいは最後まで幸せに長寿を全うして天に帰ることができるのかもしれません。いずれにしても、私たちもいつの日か地に落ちる時が来るのです。その時に、いやその時こそ、神は私たちと共にいてくださるのです。いつか必ず来る死という別れの悲しみを神はご存知ですし、与えられた人生の一日一日の歩みにおいて、このみ言葉ほど慰めに満ちた言葉はありません。

 今このみ言葉を語っている時に思い出されるのは、レーナ・マリアさんのことです。彼女は生まれつき両腕がありませんし、左足は右足の半分の長さしかありません。しかし、1988年ソウルでのパラリンピックにスウェーデン代表として出場し、水泳の背泳ぎ、平泳ぎ、自由形で入賞したのです。選手を引退した後は音楽大学に進みました。そして歌手となって世界中を飛び回ってコンサートを開き、人々を勇気づけているのです。彼女のCDに、一羽の雀にさえ目を注いでおられる神の愛を歌った讃美歌「心くじけて(一羽の雀)」(新聖歌285番)が入っています。この曲は3年前に特別音楽礼拝で澤田ルツ子さんが歌ってくださいましたので、覚えておられる方も多いと思います。

「心くじけて 思い悩み などてさみしく 空を仰ぐ・・」という歌詞が続きます。人生に起こる不慮の事故や災害、あるいは周囲の人の悪意や無理解の中にさらされている人が、心がくじけてしまい、本当にさみしくてたまらず、いろいろ思い悩んで空を仰いでため息をつく、そのような人にイエスの言葉が響くのです。イエスこそが私の真実の友である、一羽の雀にさえ目を注いで守っていてくださる神が、この私にも目を注ぎ支えていてくださる、だから声語らかに歌おうと。

 レーナ・マリアさんは語っています。自分は生まれつきの障害の故に確かに不便を感じることがある、けれどもそれを悲しんだり、落ち込んだりしたことはないのだと。なぜなら神は何か目的があって私をこういう形に作られたのだと思うから。だからその目的が何であるのかこれから少しずつ知らされていくのが楽しみですと。誰にも知られることのない小さな一羽の雀にさえも目を注いでおられるお方が今私を支えていてくださる。だから心から湧き上がってくる喜びと感謝を声高らかに歌うのです、と。

 どんな人であっても、人が生きていく時には、いろいろな悩みや苦しみ、また恐れがついてまわります。心がくじけて思い悩む時、今一度イエスのまなざしがどこに注がれているのかを考えてみたいと思います。一羽の小さい雀に注がれているイエスのまなざしは、今の私にとっても深い慰めであり、大きな約束であることをしっかり受け止めたいと思います。神の愛がいま、私たち一人ひとりに注がれていることを心から感謝して生きて行きたいと思います。

(牧師 常廣澄子)