真理の道に留まる

ペトロの手紙二 2章1〜22節

 今朝お読みした御言葉には、偽預言者や偽教師のことが書かれています。1章の終わり部分に書かれていたように、イエスの再臨など起こらないと言って人々を惑わす者が現れるだけでなく、イエスが教えた福音から外れて、間違ったことを教える偽教師たちが現われてきたのです。信仰が惰性的になってくると、人々の心にまことしとやかに偽りを教え込む人たちが現われても、それを信じてしまう人たちが出て来るということではないでしょうか。

 最近のテレビや新聞の報道で驚くのは、これだけあちこちで「オレオレ詐欺には気をつけましょう」と警告されているにもかかわらず、孫とか息子とか普段は接触の無い身内から電話で何か言われると、多くの人たちが簡単に騙されてしまって、お金をだまし取られるという事件が頻繁に起きていることです。これもまた同じように人を惑わし騙しているのですが、現代の場合は、お金を手に入れるために人を騙す悪い人がいて、高齢になって誰からも言葉をかけられないさみしい人々の心につけこんでいるとしか思えません。

 今は、新型コロナウイルスまん延ということで、社会も人間関係も大変不安定な状態にあります。このような時こそ私たちは、いろいろな考えに惑わされることなく、神が私たち人間に求めておられることをしっかりと心に留めて生きていくことが大切ではないでしょうか。人々が集まって共に主なる神を礼拝することができなくなり、お互いの信仰を分かち合ったり励まし合ったりする機会が少なくなってくると、人間の心は寄りどころを失って不安定になってきます。そのような時に、もし優しい言葉をかけて近づいてくる人がいたら、その人に気を許してしまい、その人が言うことを信じてしまうかもしれません。それがたとえイエスの福音とかけ離れていたとしても、弱くなっている心ではそれに気づけずに、イエスの道から外れてしまうことが起きるかもしれません。ペトロの時代には、実際にそのようなことが起こっていたのです。

「(1節)かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。」ここには「かつて、民の中に偽預言者がいました。」とありますが、たしかにイスラエルの歴史には偽の預言者が現われています。例えばヨシャファトの時代にはツィドキヤ(列王記上22章)が、エレミヤの時代にはハナンヤ(エレミヤ書28章)という偽預言者が現れました。偽預言者は神の言葉ではなく、人々が聞きたいと思っていること、人々に耳障りの良いことを語るのです。

 そして、このペトロの時代には偽教師が現われると語っています。「(1節続き)彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、(2節)しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。」偽教師たちは贖い主イエスを拒否した上に、みだらな楽しみにふけって、嘘や偽りで人々を惑わしていたようです。しかも人々がそれを見倣っていたというのです。彼らはイエスの教えからも倫理的な行いからも外れて間違った道を歩み、真理の道から離れていたのです。

 この箇所は、ユダの手紙に書かれていることと、大変よく似ています。ユダの手紙はたった1章しかない短い手紙ですが、その4節を見ますと、このところは次のような表現になっています。「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。」

 両方の手紙に共通なのは、ともに偽教師たちが、自分たちを贖ってくださった主キリストを否定し、露骨に「みだらな楽しみ」と表現されるような行為にふけっている者であると描かれていることです。キリストを信じる者たちが集まる教会に入り込んできた偽教師たちは「欲望の赴くままに生活してあざける者たち(3章3節参照)」でした。ですから彼らが裁かれるのは間違いのないことであり、その滅亡は明らかだと語っているのです。「(3節続き)このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」とあるとおりです。

 そして、ペトロはイスラエルの父祖時代の歴史の中からその実例を取り上げています。ここには三つの例がとりあげられています。始めは「堕落した天使たち」です。「(4節)神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」このペトロの手紙が書かれた頃には、悪い天使が七つの層からなっている天の上層部から暗い下層部に落とされて苦しめられたという考えがあったようです。

 次に洪水によって滅ぼされた「罪に堕ちた世界」のことです。「(5節)また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。」これは創世記6章に書かれていることです。
そして最後は創世記19章に書かれていることです。「(6節)また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。」主に対して多くの罪を犯していた邪悪で淫欲に満ちたソドムとゴモラの町が灰に帰せしめられた時、ロトがかろうじて救出されたことを語っています。創世記の記述とは必ずしも同じではないのですが、当時の人々はそのように教えられていて、初代の教会ではそれを受け継いでいたようです。これらの三つの例にあるのは、9節にあるように、「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」ということです。

 10節に「特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。」とあり、彼らは罰せられるというのですが、この「権威を侮る者たち」というのは、1節にある「自分たちを贖ってくださった主を拒否する者たち」のことです。

 12〜14節には、教会に入り込んで、信じる人々を惑わす者たちについて書かれています。「この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。」彼らは知りもしないことをそしる、つまり平気で嘘をついたり、昼間から享楽にふけって、性的な放縦に身を任していたのです。

 ここでペトロは聖書の中にある一つの話を用いて語ります。「(15〜16節)彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。」この話は民数記22章に書いてあるものですが、「ボソル」とあるのは「ベオル」のことだと考えられます(ヨシュア記13章22節参照)。

 占い師バラムがモアブ王バラクからお金をもらってイスラエルの民を呪うために出かけていった時のことです。彼が乗っていたろばが途中で進むのを止めてしまったので、怒ったバラムが三度もろばを打ったのです。その時、打たれたろばが口をきいて、やっとバラムの目が開かれたことを物語っているのです。ペトロがこの話を持ち出したのは、バラムが正しい道から離れてしまったことや、偽教師たちがこの話に出てくるろばほどの知恵も持ち合わせていないことを示唆しているのでしょう。

「(17〜18節)この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。」ペトロは、彼らは干上がった泉や、嵐に吹き払われる霧のようであると例えた後、「彼らには深い暗闇が用意されているのです。」という恐ろしい未来を告げます。「干上がった泉や、嵐に吹き払われる霧」という例えには中味がないという意味が含まれていますから、彼らの言うことは大言壮語にならざるをえないのです。

 そして「(19〜20節)その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。」と語ります。この終わりの文章は、マタイによる福音書12章に書かれている「汚れた霊が戻って来る」話を思わせます。人間から追い出された悪霊が、砂漠をうろついて休む場所を探すけれども見つからないので、またもとに戻って来るのですが、その時は自分よりも悪い他の七つの悪霊を一緒に引き連れて戻って来たというのです。

 今起こっていることも、そのことと同じではないかと嘆いているのが21〜22節です。「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また、『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。」と当時の格言を引用しながら語っているのです。

「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」というのは、箴言26章11節から採られた言葉だと思います。18節に「迷いの生活からやっと抜け出て来た人たち」とありますが、キリストを信じた者は、真理の道(義の道)を見いだし、それを受け入れることによって、迷いの道からやっと抜け出せた人たちです。そういう人たちが偽教師たちによって肉の欲やみだらな楽しみに誘惑されてしまい、またもとの迷いの生活に逆戻りしてしまうという愚かさを示しているのです。

 当時、キリストを信じる人たちは、異教社会の汚れた習慣に生きている人々に取り囲まれていたので、そのことに惑わされて真理の道から離れそうになるという、霊的に大変危険な状態にありました。確かに信じた人たちは、イエスの福音によって幾分かは神にある自由がわかっていたのでしょうが、偽教師たちの間違った教えに惑わされて、19節にあるように「滅亡の奴隷」になってしまったのです。つまり彼らは、律法からの自由というのは、神が欲することよりも自分が欲することをする自由だと考えてしまったようです。神にある自由と、自由奔放な放縦な生活との見分けもつけられないようになってしまったのですから、ペトロは何とかしてそのことを指摘して正さなければならないという強い思いがあったのは当然だと思います。このことがしっかりまとめて語られているのが、以前にお話ししたペトロの手紙一2章16節の御言葉、「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」です。

 私たちが真の神を信じて歩む信仰の道は、真理の道であり自由の道です。一人ひとりが神から与えられた賜物を用いて、喜びながら生き生きと神と隣人に仕える道です。今、社会には様々な情報が飛び交い、価値観も倫理感もあらゆるものが揺れ動いていますが、今こそ私たちはしっかりと真理の道に踏みとどまらなくてはいけないのではないでしょうか。そしていよいよ深く主を知る知識に満たされて生きていけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)