神の慈しみに生きる者

詩編 16編1〜11節

 今朝の御言葉は詩編16編からです。この詩には、異教の風習が強要される異国の支配下にあるにも関わらず、真の神への確固とした信仰を持って歩む詩人の姿が美しい言葉で歌われています。始めに「ミクタム・ダビデの詩」とあります。ダビデを冠する詩編は数多いのですが、ある聖書学者によれば、この詩の内容から考えて、ダビデがサウル王に疎まれ、追われて逃げ惑っている時に作った歌の一つではないだろうかとも言われています。

 ミクタムという言葉の正確な意味はわかっていませんが、詩編の56編から60編にもこのミクタムという表示がつけられています。何か音楽に関する言葉かもしれません。ミクタムという原語には黄金という意味があるようですから、もしかしたら神の深い真理や奥義を伝える黄金詩とでも言えるものかもしれません。内容がとても素晴らしいので、コロナ感染状況が厳しく不安な時期を過ごしている私たちの信仰を励まし支えてくれるものだと思います。

 始めに詩人は「私を守ってください」と祈り願っています。まるで今の私たちのようです。「(1節)神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。」この「守る」という言葉には、中に入れて保有するという意味が含まれています。神を信じて生きる者は、「避けどころ」である神の中に逃げ込んでいるのですから、神の中で守られているのです。ですから敵が現れれば、神がその敵に対応してくださいます。神の中に匿われているのですから、大雨も大嵐も神が防いでくださいます。そのように、信じる者の命を守ることはあなたの仕事、あなたの責任ですよと、この詩人は神に訴えているのです。

 そして詩人は、自分にとってはあなた以外の主人はいない、あなたの他には自分の幸福もないのだという揺らぐことのない信仰を語っています。「(2節)主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」「あなたは私の主」ということはつまり、「私はあなたの僕です。」ということです。「あなたのほかに私の幸いはありません。」ここの「あなたのほかに」という言葉は、「あなたを超えて」という意味です。つまり神を突き抜けて向こう側に行ったとしてもそこには自分が求めるものは何もない。あなたが私の幸福の源ですという確固とした信仰を語っているのです。

 この詩を、サウル王に追われて逃げ惑っているダビデの立場を考え、その心を想像しながら読んでいきますと、ここに書かれている祈りの言葉がよく伝わってきます。ダビデはサウル王の嫉妬のために追われ、見つかれば殺されそうな状況にあったのです。ダビデと一緒に逃げているのは、ダビデを愛し、ダビデと信仰を同じくする仲間たちでした。逃げ惑うダビデを匿ってくれた人たちもいたことでしょう。それらの人たちは神を信じ、神に属する者でした。そういう人たちを「(3節)この地の聖なる人々、わたしの愛する人々」と言って呼びかけているのだと思います。
 そして自分が信じるのは、この神だけだと信仰者としての決意が語られています。「(4節)ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません。」当時は激しい宗教的弾圧があったようで、異教の神々へ犠牲の動物が捧げられ、ある場合には人間さえも捧げられるという事態が起きていたようです。詩人はいかなる理由があろうと、血を流すことによって神を拝むのは本当の信仰ではない、血を流すことによって仕えなければならないような神は私たちの神ではない、自分はそういう仲間には加わらない、とはっきり宣言しているのです。

 5節からは自分が神を信じ、神により頼む理由が書かれています。「(5〜6節)主はわたしに与えられた分、私の杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」ここに書かれている「分」というのは、分け前、あるいは分け前として与えられたもののことです。杯も同様です。測り縄というのは、土地の割り当てをする時に用いる縄のことで、この測り縄で土地を測って、ここがお前の土地だと割り当てられたものがここで「嗣業」と言われているものです。嗣業としての土地は神のものですから、土地の売り買いには細かい神の定めがあり、人々への配慮がなされていました(レビ記25章参照)。
 翻って今、私たちの住んでいる社会はどうでしょうか。経済格差が大きくなり、人々が分断されています。土地を含む多くの不動産や貴金属や預貯金など、豊かな財産を持っている人たちがいる傍ら、今日食べる物も住む所も無くて、生活に困窮している人たちがいるという悲しい現実、政治の貧困があります。しかしそういう豊かさにある人の物質的な富は、錆が着いたり、泥棒が来たり、いつかは無くなる時が来ますから常に警戒しなくてはならないものです。ところがここでは詩人は「わたしは輝かしい嗣業を受けました。」と言って自分が受け取った分、その嗣業を感謝しています。

 当時、土地、そしてその土地の耕作権は、主観的な観念上のものではなく、現実的な生きる権利だったからです。この権利は詩人の心に深い感謝と喜びを与えるものでした。そしてそれは死を超えて永遠の命に至る道へとつながっているものだったのです。それは詩人の財産、あるいは宝と言って良いものだったでしょう。詩人は神ご自身を、神の心を、すなわち神の愛をいただいたと語っているのです。神こそが私の主人であり、神からいただいた分け前としての神の愛は、何者も奪うことができないものであり、自分の運命を支えてくれる不変のものだと語っているのです。
 そしてここからは、このように素晴らしい神をほめたたえています。「(7〜9節)わたしは主をたたえます。主は私の思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」

 神はみ霊を通して、私たち信じる者に私たちが知るべきこと、成すべきことを教えてくださいます。夜、床に就いても悩みや苦しみや孤独な思いで眠られずにいる時には、その心に慰めと励ましを語りかけてくださるのです。神は常に私たち信じる者の右に立って私たちを守っていてくださいます。右側には力があります。右の手は力ある手なのです。そのような神がいつも共にいてくださる(い続けてくださる)のだから、何が起きても揺らぐことはないと感謝の心を歌っています。

 この個所は、聖霊降臨の時にペトロが説教の中で引用して語っています。「ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。』」(使徒言行録2章25節)これは信じる者につねに伴われる御霊なる神の素晴らしさです。
9節には「心が喜び、魂が躍り、からだは安心して憩う」と、人間の身も心も、からだ全体に満ち溢れる喜びが歌われています。私たち人間のいろいろな楽しみも喜びも、すべては神への信仰に結びついているのです。神の守りと導きに信頼するならば、心も魂もからだも、その人の人間まるごとが「もう大丈夫だ」と安心して本当の憩いに入ることができるし、心から安らぐことができるのだと歌っているのです。
「(10節)あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。」自分は今こうして自分を殺そうとしている追っ手に追われ、逃げ惑っているけれども、神は必ず信じる者を守り、死ぬことが無いように助け出してくださるのだという信仰が、ここでは「陰府に渡すことなく、墓穴を見させず、命の道を教える」という表現で語られています。「命の道」とは「命に至る道」のことで、永遠につながる道です。もちろんここでの永遠という意味は人間の時間間隔で捉えるものではなく、始めであり終わりである神につながる道のことです。

 そして最後に「(11節)わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」というように、神の力強い右の御手から永遠の喜びをいただくのだと、神と神を信じる者との間にある美しい交わりの約束を歌っています。私たちもまたこのように、神を信じて、目の前に主を見ながら歩んでいきたいと願っています。そのような信仰をもって歩んでいくならば心が満ち足り、自然に喜びが溢れ出て来るからです。

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックで、世界中の人々が苦しい状況に追いやられていますが、このような時こそ、人間を愛して、御子をさえもこの世にお降しくださった神の愛と交わりを感謝し喜びたいと思います。この詩には神と人間とが深い絆で結ばれていることが歌われています。そのことがこの苦しい境遇にある人間世界を神の国に変えていくのです。ここに「神の慈しみに生きる者」の信仰の神髄を見ることができるのではないでしょうか。

 今後、新型コロナウイルス感染状況がどのような事態になって行くのか予想することはできませんが、どのような場面に遭遇しても、この詩編の御言葉にあるように、神の素晴らしい約束によって励まされていきたいと思います。そして私たち一人ひとりに輝かしい嗣業が与えられていることを感謝し、主なる神を避けどころとして生きていきたいと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)