罪びとを招く主

ルカによる福音書 5章27節~32節

 長引く“コロナ禍”にあって、さらに厳しい状況が日々伝えられております。この困難な状況下にいる時にこそ、わたしたちは、主なる神に聞き、従って行動をとっていくことが大切であることを思わされております。

 本日の説教箇所は、主イエスさまが自ら出て行って、徴税人のレビを招いて弟子とされる出来事から始まっております。なお、この記事は共観福音書すべてにありまして、マタイによる福音書9章9~13節、そして、マルコによる福音書では2章13~17節にあります。ときにはこれらも参考にしながら、ルカによる福音書ならではの独特で、豊かなメッセージをご一緒に聞き取って参りましょう。

 早速本日箇所に入ります。27節「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」とあります。“その後、イエスは出て行って”と、前の段落との関連性も思わせながらの書き出しですが、その場所は、イエスさまがガリラヤ伝道のさ中に、ナザレの町を後にしてカファルナウムに出て来られ(4章31節以下)、そこを拠点に伝道を展開されましたが、本日の舞台は、そのカファルナウムの町での出来事である、とされております。

 主イエスは、収税所に座っていた徴税人のレビに、「わたしに従いなさい」と、招きの言葉をかけられましたが、この招きの言葉と、それに対するレビの応答に入る前に、徴税人とはどのような職業であったか、その特徴などを先に見ておきましょう。イスラエルは、当時ローマの支配下にありましたが、各地方には領主がいて、その領主がローマの委託を受け統治していました。なお、ガリラヤ地方の領主はヘロデ・アンテイパスでした。

 “徴税人”はその領主から、徴税の権利を買い取って資格を得たうえで、収税の仕事に着いていました。そして、決められた収税所に座り、通行人やそこの住民から、決められた税を徴税していました。しかし、ここまでは表向きでしたが、その後が驚きです。徴税人は、決められた税額にさらに多額の手数料を上乗せして集め、もしも相手の人が、その請求額を支払うことが出来なければ、高利をとってお金の貸し付けまで行っていた、と言われます。そのため徴税人は、社会の人々からは嫌われ、差別され、さらに罪人扱いをされていたのです。

 ルカ福音書3章12節には、バプテスマを受けようとして、バプテスマのヨハネの元を訪ねて来た徴税人が、ヨハネに対して、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ね、これに対するヨハネの答えは、「規定以上のものは取り立てるな」でした。これは、当時の徴税人の特徴をよく言い表している出来事です。

 本日箇所に戻りまして、カファルナウムの町に出て、収税所に座っていた徴税人のレビを見て、イエスさまは、「わたしに従いなさい」との招きの言葉をかけられましたが、ここで使われております、“レビを見て”の、見て、に注目しましょう。この見ての原語(ギリシア語)では、単に見る、だけではなく、“じっと見つめる”、の意味の言葉(エセアサト)が使われているのです。
 主イエスさまは、あるいは前もって、レビのことをよく知っていたのかも知れません。町の収税所に座っているレビを、イエスさまは、じーっと慈しみの目でご覧になり、彼の胸の内を、そして心の内の悩みを感じ取られての、「わたしに従ってきなさい」のお言葉だった、と想像できます。

 イエスさまの招きの言葉を聞いたレビは、直ちにその招きを聞き入れ、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」(28節)のです。この「この何もかも捨てて」の言葉は、共観福音書の並行記事の中で、ルカ福音書にだけに記されている言葉です。“何もかも”すなわち、自分が今まで拠り所として生きて来た、徴税人の資格も仕事も、そして、その仕事に関係する仲間内の人間関係もすべて捨て去り、立ち上がって、すぐさまイエスさまに従って行ったのです。

 皆さんも夫々(それぞれ)ご自分の人生の中で、そして信仰の歩みの中で、大きな決心、そして大きな転機を経験されたことがお在りかと存じます。わたくしもその経験が二度あります。初めは、都合約30年間、勤めてきました製薬会社の仕事に見切りをつけたうえ、天城山荘の仕事を引き受けたときです。そしてさらに大きな転機は、山荘での勤めを定年退職して帰京し、暫くしてから、神学校での学びを決心したときです。そのときの喜びを周りの人に、“私にとっては今が、人生の第一の転機です”と伝えておりました。そしてその喜びを逸早くお伝えしたのは、今はすでに召されている、岡村正二牧師でした。

 聖書に戻りまして、“何もかも捨てて”、イエスに従っていったレビは、その喜びを表すべく、盛大な宴会を催し、先ずイエスさまを招き、そして、かつての徴税人仲間を、そして多くの人を招きました。その中に、ファリサイ派の人々や律法学者たちもいたのです。
 ここで、“食事会”に思いを馳せてみましょう。食事会は、単に生きるための飲食に留まらず、人と人の、神と人の交わりの場でもあります。聖書には、食事の場面が沢山出てまいります。
 イエスさまの、マルタとマリヤの家での食事から始まって、シモンのしゅうとめの家での食事(ルカ福音書4章38節)、ファリサイ派の人々の招きでの食事(ルカ福音書7章36節以下)、さらにまた取税人ザアカイの家での食事(ルカ福音書19章1節以下)等々あります。
わたくしたちも、今でこそ、コロナ禍のため、教会活動は思うようにできませんが、クリスマスやその他の祝会での食事、特別集会の後の愛餐会など、それぞれに楽しい思い出があります。

 聖書に戻ります。徴税人だったレビに招かれて、イエスさまと共に同席していたファリサイ派の人々や律法学者たちは、“盛大な宴会”に招かれているその喜びを表すのではなく、イエスさまの弟子たちに向かい「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」(30節)と呟(つぶや)きの言葉をぶっつけたのです。この、“罪人と食事を一緒にすることを避け、あるいは、嫌ったりする”考え方は、律法の考え方から来ています。その律法全体について主イエスは、「これを廃止する」とは仰らずに、「完成するために来た」と言われました、お馴染みの聖書箇所「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない、廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5章17節)とあります。

 では、ファリサイ派の人々、律法学者の呟きに対しての、主イエスのお答、31節、32節を見ていきましょう。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」とあります。このお言葉は、彼らの呟きに直接答えたり、あるいは反論するのではなく、むしろ、彼らが発した言葉をチャンスと捉え、この世の道理から始まって、ご自分が世に来られた目的、そして福音の神髄をお語りになっている言葉です。またこの中には、先ほど例示したマタイ福音書(5:17)の考え方も踏襲されていることに気づかされます。

 因みに、前半31節のお言葉、“医者を必要とするのは、健康な人ではない”の、「健康な人」は、ルカ福音書だけが用いている言葉であって、ほかの並行箇所では“丈夫な人”としています。この“健康な人”とは、体だけではなく、心身共に健やかな人、という意味です。ここにもルカ福音書の特徴がよく表れております。“医者を必要としているのは、心身健康な人ではなく、心とからだにおいて、いろいろな弱さを抱えている人です”、と言っております。
 そして、後半32節は、「正しい人を招くためではなく,罪人を招いて悔い改めさせるためである」は、ご自分が、この世に来た目的、すなわち、この世で福音を伝えるためであり、その福音の中心は、罪びとを招いて、悔い改めに導くことが目的です、と言われています。
この、イエスさまのお言葉を聞いた、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、どのような気持ちでイエスさまのお話を聞いていたのでしょうか。その時もなお、自分たちはいつも絶対正しく、徴税人のような罪人ではない、自分たちには全く関係のない話だ、と聞き流していたのでしょうか。

 では、本日箇所全体の、ポイントを確認いたしまして、私たちに必要なメッセージをその中から汲み取って参りましょう。
•主イエスさまは伝道の初期の頃、ガリラヤの漁師シモン・ペトロを招いたのに引き続き、徴税人のレビを招いて弟子とされました。
•そのレビは、何もかも捨てて、主イエスに従って行き、盛大な宴会を催して、イエスさまや弟子、かつての徴税人仲間、更にはファリサイ派の人々などを招いて、その感謝と喜びを表しました。
•しかし、招かれたファリサイ派の人々、律法学者たちは、その喜びを表すのではなく、イエスさまや弟子に対し「なぜあなたたちは、徴税人や罪人などと食事を共にするのか」との呟き、そして不満でした。
•主イエスさまはこれを聞かれ、逆に、ここがチャンスと捉え、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」とイエスさまが世に来られた目的、そして福音の中心、神髄を告げられました。

 このイエスさまのお言葉は、わたしたちすべてに呼びかけ、そして御国へと招いていてくださるお言葉です。わたくしたちは、この招きにどのようにお応えするのでしょうか。徴税人レビのような罪びとではない。また、ファリサイ派の人々や律法学者のように、人を批判する者でもない、と言い切ることも決して許されません。どうか、すべての人が、主イエスさまの招きに応え、従って生きることが出来ますように、ひたすら願っております。

(牧師 永田邦夫)