エフェソの信徒への手紙

心の目を開けて

エフェソの信徒への手紙 1章15〜23節

 いま社会は、新型コロナウイルスやその変異株ウイルスの感染拡大によって、大きな混乱の中にあります。オリンピックは先日閉会式を終えましたが、このような時期にやってよかったのかどうか賛否両論あり、様々な面で今後の検証が待たれます。この後にはパラリンピックが予定されていますが、感染状況によってはどのようになるのか予想できません。私たちはもう何か月も感染拡大防止のために礼拝堂に集まっての礼拝を自粛してきました。いったいいつになったらこの状況が収まってくるのか、いつになったら礼拝再開ができるのだろうかという不安な思いの中で、心からその収束を願って神に祈り続けています。私たちは今ほど熱心に心から神に祈ることはなかったのではないでしょうか。

 今朝はエフェソの信徒への手紙1章にある「パウロの祈り」の言葉を通して神に聞いていきたいと思います。パウロは、今朝の聖書箇所の前の部分で、神の恵みの豊かさや素晴らしさを讃え、真理の言葉、すなわち救いをもたらす福音を聞いて神を信じ、キリストに希望を置いて生きる者は神の栄光を讃えて生きるのだと、格調高い賛美の言葉を語っています。そしてその後で今朝の御言葉の祈りの言葉が続くのです。パウロは神の力と御業を賛美しながら祈っているのです。

 ではパウロは何を祈っているのでしょうか。「(17〜19節) どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」このみ言葉にあるように、私たちに知恵と啓示の霊が与えられ、神を深く知ることができるよう、私たちの「心の目を開いてくださるように」と祈っているのです。

 それはどうしてかと言うならば、私たちの心が病んでいたり、私たちの心の目が様々な欲望や世間体や感情によって惑わされて濁っているならば、神の真理を知ることができないからです。もし、私たちの心の目が開かれて、はっきり見えるようにならないならば、教会に与えられている希望や、その希望の内容や、キリストを死者の中から復活させられた神の力がどんなに素晴らしく絶大なものであるかを知ることができないのです。

 パウロがここで祈っていることは、18、19節ありますように、神を信じる者とされた者にはどのような希望が与えられているか、また、信じる者が受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、神を信じる者に対して働かれる神の力がどれほど大きなものであるか、これらのことを悟ることができますように、ということなのです。とりわけ現実に生きて働かれる神の力を身を持って体験しているパウロは、「神の力」の偉大さを褒めたたえながらこの手紙を書いていることが想像できます。

 パウロは「(19節)わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」と祈っていますが、「神の力」とはどんなふうに素晴らしいのでしょうか。それは何よりもまずキリストの復活を知らなければわからないと言います。「(20〜21節)神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」

 神の力は、キリストを死者の中から復活させることができる力なのです。キリスト・イエスは十字架に架けられて死に、最も暗い所に降られました。以前にお読みしたペトロの手紙一3章19節では、この時イエスは死者の場所に捕らわれていた霊たちにも宣教したと語られていました。そのように神は、最も低い地下の底にも降られたイエスを甦らせて、今度は最も高い天において御自分の右の座に着かせられ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれたのです。ここに書かれている「支配、権威、勢力、主権」という四つは、天の最下位に住み、地上のすべての権力を支配していた四人の霊たちの名前だと考えられていたようです。神は彼らの上にイエスを置かれ、今の世界だけでなく、来るべき世においてもあらゆる名の上に置かれたのです。

 ここで、古代の宇宙観について少し説明しておきますと、当時の人々は、地球を扁平な板のようなものだと考えていたようです。大地はいくつかの領域に分かれていて階段でつながっていました。先ほどの「支配、権威、勢力、主権」という四つの霊は、天の最下位、つまり最も人間世界に近いところにいた霊たちのようですが、人間を攻撃したり、操ったり、虜にしたりして、その一生を動かしていると考えられていました。同じくエフェソの信徒への手紙の2章2節の「かの空中に勢力を持つ者」とか、6章12節にある「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」という言葉で表されている霊たちも、このような考え方を背景にしています。もちろんキリスト信じる者はそのような無力な霊に対する迷信など捨て去った者たちです。この手紙では、当時の人たちが抱いていた考えを用いながら、キリスト・イエスの勝利の意味を明らかにしようとしているのです。すなわち、キリストはこのような地上のいっさいの権威の上にあり、すべての名の上に置かれた主であるということです。

 さてそのように、神は、キリストを死者のいる暗闇の、全く望みのない所から引き上げて、神の右にまで高めてくださいました。カルヴァンは「神の右」ということをこのように説明しています。「このところは、神の右ということを他のどこよりも明らかに示している。すなわち、これは何らかの空間的な場所ではなく、天の神がキリストに与えた力、すなわち父なる神の名においてキリストが天と地の王国を統べ治めるということを示しているのである。」この言葉のように、「神の右」というのは、現在(今私たちが生きているこの時)、復活のキリストが神の世界支配に与っているという事実を示している言葉なのです。何という素晴らしいことなのでしょうか。

 そして「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」神の力は、キリストを、すべての創られたものや人間を覆っている罪の力や死の陰の力の上にまで高めた力です。そしてその力はいっさいの敵意や対立や分裂を超えています。キリストは、これらの敵意や分裂や対立といったこの世の罪を一身にご自身の身に負って、真実のなだめの供え物となってくださったからです。このように十字架に架けられたキリストこそが今や隠れた世界の王であり、希望です。このことがキリストの復活の中には満ち溢れているのです。そしてこのことが「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」(19節)なのです。

 しかしながら、多くの人々はこの世界を創られた真の神を知らず、この人間世界をただこの世の法則によって動いている一つの天体であるかのように考えています。神の御子キリストに関しても、いわゆる偉大な人として尊敬はしても、一つの宗教の枠の中に閉じ込めています。その結果、私たち人間社会は自分たちが行ってきたことの結果を刈り取るような厳しい現実に直面しているのです。そのような社会に住む私たちは、いつしか希望を無くし、敗北したかのような信仰生活になりがちです。しかし、神の言葉はそのような小さなキリストを証ししているのではありません。キリストは復活によってこの世界をご自分のものとされたのです。このことは神ご自身が決められたことであり、約束なのです。このような恵みに溢れた未来への希望を持って生きるために、私たちの心の目が開かれなくてはならないのです。

 くすしくも本日は終戦(敗戦)記念日にあたります。本来であれば、本日の礼拝は「平和礼拝」として捧げられるはずでした。広島と長崎に原子爆弾が落とされて、多くの尊い命が奪われ、沖縄では激しい戦いがあり、戦争による犠牲者の数は数え切れません。76年経った今もなおその悲しみと苦しみが続いているのです。二度とそのような愚かな戦争を繰り返してはならないと思います。そしてそのためには、私たち人間が平和の神である真の神に立ち帰り、この世界の支配を人間の力ではなく「神の力」に委ねなくてはならないのです。

 今も世界の各地で争いが続いており、多くの血が流され、命が奪われ、悲しみと苦しみに泣き叫ぶ人々がいます。どうしてそのようなことが繰り返されているのでしょうか。それは人間の罪である支配欲があるからです。技術力に代表されるこの世の力は、もともとは人間が作りだした良きものでしたが、それが本来の意味を失うと、人間を支配し、人間を分断し、人間を酔わせて非人間化していきます。学問や文化のように価値あるものであっても、使い方を誤れば人を支配する傲慢な力になり得ます。先ほどの四つの霊「支配、権威、勢力、主権」はことごとく人間を支配する力です。ある意味では、今日でもその力が働いていると言っても過言ではないと思います。

 ここで真に大切なこととして、キリストが復活して死に勝利したことが大きな意味を持ってきます。神の力は、人間の敵意や争いという罪に勝利する力であり、キリストを通して与えられるものなのです。キリストはこの世にいる私たち人間の上に高くあげられたお方です。しかし今、私たちすべての人間は、そのキリストによって、何の恐れもはばかることもなく父なる神に近づくことができるのです。それはキリストが成し遂げられた贖いの御業によるのです。

 「(22〜23節) 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」教会の頭として与えられたキリストは、実にすべての被造物がその足もとに従い、すべてのものの上に頭として与えられたお方です。十字架に架けられたキリストこそが今や隠れた世界の王であり、希望なのです。このお方による以外に本当の平和はありません。

 御一緒に礼拝ができない日々が続いていますが、この世にある教会の頭であるキリストを見上げ、コロナ禍といわれるこの揺れ動く人間社会にあって、今一度その「神の力」をしっかり覚えていきたいと願っています。そのためにも私たちの心の目が開かれて、今も働かれる神の力がどれほど大きなものであるかを知ることができますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)