神の真実

コリントの信徒への手紙一 1章1〜9節

「コリントの信徒への手紙」は、パウロがコリントにある教会に宛てて書いたものです。このコリント教会は、パウロが第二回伝道旅行の時にこの地を訪れ、約一年半程滞在した時につくった教会です(使徒言行録18章参照)。パウロはその後エフェソに移りましたが、そこへコリントからやって来たクロエの家の人たちから、コリント教会の中で争いがあると聞いたものですから(1章11-12節参照)驚いて早速この手紙を書いているのです。パウロはコリントを去ってからも、この教会のことを思って祈り、心を砕いて関わっているのです。

 コリント教会が当時どんな様子だったのかは、この手紙を読んでいただければ分かるのですが、信仰上の無知や無理解があったり、人々の仲違いがあったり、神を信じる人の間にも不品行が横行していたり、パウロたち伝道者を信頼しないだけでなく、様々な面で問題を抱えた教会だったようです。しかしこのような状態であってもパウロはこの教会を愛していました。決して見捨てたりしません。この教会宛てに何度も手紙を書いたり訪問したりしているのです。このコリントの信徒への手紙は一と二がありますので、手紙は二つだけかと思うかもしれませんが、5章9節に「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、」と書いてありますので、この第一の手紙の前にも手紙が書かれていたことがわかります。

 コリントはローマ帝国アカイア州の首都でした。地理的には今のギリシアの南方で、東側にはエーゲ海、西側にはイオニア海という、ギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ付け根のところにあります。近くにはケンクレアイという良港があり、コリントは交通と運輸の中心地でした。ここに東西のいろいろな物資が集められ、各地に取引されていったので、商業が盛んになりました。商行為が発展していきますと経済が発達します。経済の発展、つまりお金の動くところには世界各地から人々が集まってきます。旅行者の往来が激しくなると町は活気づきます。そのようにしてコリントは発展していったのです。

 しかし、貿易が進んでいくと共に各国から偶像も入り込んできました。コリント市の南側には高い山があり、その山頂に女神アフロディテの神殿がありました。そこには女神に仕える巫女が千人もいたといわれています。コリントは歓楽の町となり、不道徳が横行していったのです。「コリント風に生きる」というのは遊蕩怠惰に生きることを意味しました。ギリシアと言えばオリンピック発祥の地アテネが有名ですが、アテネが哲学と学問の町なら、コリントは商業と技術の町と言うことができます。コリント建築は今もよく知られていますし、コリント真鍮は名高く、その技術は世界に誇るべきものです。

 このようにコリントは交通の要所であっただけでなく、ギリシアにおける政治経済の中心地でしたので、世界各地に影響を与えていました。従ってこの地に教会を立てることは、福音を宣べ伝える上で極めて重要な意義を持っていたのです。ですから、パウロはアテネを去ってこのコリントに移って来たのです。

 ところで、パウロが初めてコリントに来た時のことが2章3節にこのように書かれています。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」当時のことを思い出して書いているのですが、パウロは何を恐れ、何を心配していたのでしょう。考えられるのは、その前に行ったアテネでの伝道の失敗ではなかったかと思います。パウロがイエスの復活を語った時、アテネの人々からあざ笑われ、軽くあしらわれてしまったのです。その後、コリントに移ってきたわけですが、町の状況を一目見たパウロは、腐敗した肉欲的な歓楽の町、偶像に満ちたこのコリントの町にどうやって福音を語っていけば良いのか、簡単なことではないと気づき、とても不安な気持ちになったのではないでしょうか。またあのアテネの時のようになるのではないかと、人々の反応を恐れたのかもしれません。

 しかし、神の導きにより、アキラとプリスキラ夫妻と知り合い、彼らの家に住み込んで伝道を開始します。困難はありましたが、次々と主を信じる者たちが与えられ、コリント教会ができていったのです。

 手紙本文を読んでいきましょう。「(1節)神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、」パウロはもともと律法を厳格に守るファリサイ派の信奉者でキリスト教徒の迫害者でしたが、復活の主にお会いしてから180度変えられて主のために働く人になったのです。パウロは今や自分をキリスト・イエスの使徒であると確信をもって証しています。また、それは「神の御心によって召された」のだと謙遜な心も見えます。「兄弟ソステネ」と書かれている人は、コリントにあるユダヤ人会堂長であった人だと思われます(使徒言行録18章17節参照)。たぶん後にパウロの宣教の働きを助ける同労者になったのではないかと考えられています。

 続いて「(2節)コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」と呼びかけています。

 教会は神のものであり、神に呼び出された者の集まりです。ですからそれはキリストの名を呼ぶすべての人に及びます。教会は場所にとらわれることなく世界中の至るところに存在します。教会は、国家、民族、階級、性別、年齢、貧富の差等、一切の隔てを超越するものです。今ここで問題となっているコリント教会の人たちもまたキリスト・イエスによって聖なる者とされているのだと言っているのです。ですからこの後に「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」と続いています。

 そしてパウロはその人たちの上に「(3節)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と祈っています。「恵み」というのは、もともと何の資格もない者の上に与えてくださる神の顧みの心です。神が私たちを愛して恵みを与えてくださるのは、私たちに何か功績や値打ちがあるからではありません。それは父なる神のまったくの親心です。私たち、神を父と呼ぶ子どもに対する親の憐みなのです。その数々の恵みの中で最も大きい恵みがイエス・キリストを送ってくださったことです。罪人として滅ぼされるしかなかった私たちが、救われて神の子となり得たのは、ただこの恵みによるのです。そして「平和」は、この恵みをいただいた人の心に自然にわき起こるものです。恵みは平和の源なのです。

 パウロは続けて、コリント教会の人たちが神に祝福された状態にあることに感謝しています。「(4節)わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」パウロは今、コリント教会が陥っている過ちを正すためにこの手紙を書いているのですが、決して強い叱責や、怒りを語っているのではありません。キリストの僕として心からの愛と細やかな配慮をもって語っています。

 先日も、真のキリスト者とはどんな時でも感謝することができる人ではないだろうかということをお話いたしましたが、現実生活がどんなに大変で苦しくても「キリスト・イエスにあって与えられた神の恵み」を思うなら感謝の思いがわき起こって来るのではないでしょうか。それは、自分がキリストに救われ、主の恵みの中に生かされていることを知っているからです。この恵みをパウロは自分だけが喜んでいるのではなく、手紙の相手先であるコリント教会の人たちもまた神の恵みを受けていることを感謝しているのです。パウロのこの心は本当に謙遜な尊い心だと思います。

「(5節)あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」あらゆる言葉とありますが、言葉は理解したことを表現する力です。また知識とは物事を理解する能力です。ここで言われている知識や言葉はこの世の知識や言葉ではありません。キリストに結ばれているあなたがたの言葉であり、知識なのですから、神につながるものです。この知識を得ることによって始めて人生の意義が明らかになり、この言葉を得ることによって始めて神に栄光を、人に徳を帰することができるようになるのです。だからパウロは「すべての点で豊かにされています。」と神に感謝しているのです。

「(6〜7節)こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」十字架にかかったイエスが主なるキリストであることが、コリントの人たちの心に確かなものとされていること、またキリストの再臨を信じて信仰の緊張をもって歩んでいることをパウロは喜び、感謝しています。

「(8節)主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」恵みの賜物を受けて、再び来られる主を待ち望んでいるならば、神はその最後の日に至るまで、あなたがたコリント教会の人たちを信仰のうちに固く支えてくださいます。そして主イエス・キリストの日に、すなわち主がおいでになる時に、恐れることなく主の前に立ち得る者としてくださいます。だからどうかいつも目を覚まして、神の恵みにすがっていてほしい。最後まで私たちを支えてくださるのが神の約束なのだから、この神の約束を信じて希望をもって進んでいってほしい、パウロは心からそのことを願いながら書いているのだと思います。

 このような約束をしてくださったのは「真実な方」なのです。何よりも誰よりも信頼できるお方なのです。「(9節)神は真実な方です。」とあるとおりです。一切の人間が偽りものだとしても、神だけは真実なお方です。決して信じる者を捨て去ったり、裏切るようなことはなさいません。だから人は大胆にこの神に信頼して良いのです。

「(9節続き)この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」神が真実であることの何よりの証拠は、私たち罪人を召して、主イエスとの交わりに入らせてくださったことです。神と交わり(具体的には御言葉を読み、学び、祈り、聖餐に与ること等々)、日々神から命の供給を受けて、人は始めて正しく生きることができます。
 そして永遠の命に与ることができるのです。

 以上に見てきましたように、パウロはこのように、手紙のはじめに挨拶と感謝の言葉を書いています。パウロはコリントの人たちが立派な信仰を持ち、立派な行いをしているから感謝しているのではなく、コリント教会にはただただ神の賜物と神の真実があることを信じて感謝しているのです。現在は責められるところの多いコリント教会かもしれないけれども、ここに至るまでには数々の恵みや祝福を受けてきたのです。これからもいろいろな面で学び、確かなものにされる必要があることに気づいてほしいというパウロの気持ちが込められているように思います。

 神は真実なお方ですから、信じる者を最後まで堅く支えてお導きくださいます。これは私たちを含めて、主を信じるすべての人に対して語られている言葉だと思います。新しい週もこの真実の神を信頼し、み手に導かれて歩ませていただきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)