十字架の言葉

コリントの信徒への手紙一 1章18〜25節

 降誕節(アドベント)の第一主日となりました。本日から次週12月5日までの一週間は「世界バプテスト祈祷週間」です。この運動は、中国で大変な苦労の中で伝道していたアメリカの宣教師、ロティ・ムーンさんが、南部バプテスト連盟に「もっと働き人を送ってほしい」と書き送った一通の手紙から始まりました。そのことがきっかけとなり、クリスマスを前にしたこの時期に世界中の一人でも多くの人にイエス・キリストの福音が届けられるように、祈りと献金を捧げましょうという運動となりました。今ではこの働きは全世界に広められて、世界伝道のために大きな力となっています。

 この「世界バプテスト祈祷週間」という運動だけでなく、キリスト教が起こってからおよそ二千年の歴史において、キリストの福音は全世界のあらゆる国々に宣べ伝えられてきました。我が国においては、せっかく伝えられたキリスト教が弾圧された鎖国時代がありましたが、明治に入り、開国と同時にキリスト教の宣教師たちが布教のために大勢来日し、日本各地にキリスト教会が建てられていきました。しかしその救いの福音は、聞いたらすぐに信じられるというものではありません。その教えに反発する人達もいますし、世界にはそれを受け入れない人々や国々が今なおたくさんあります。

 ある人たちはこのように批判します。信じている教祖が十字架にはりつけにされて助けてくれと叫ぶなんて何と無様な宗教であることか。あるいは、キリスト教は科学的に考えれば土台無理な宗教である。これは自然科学と全く相反している。処女降誕にしても十字架の死からの復活にしてもどれ一つとってもばかばかしくてあり得ないことである。宗教というものは万人が納得する普遍的なものでなければならない、と。しかし、それらの人々が聖書の教えは馬鹿らしいと言う前に、聖書自らがこう言っているのです。「(18節)十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです。」と。神の真理に反対する人たちの特徴は合理的であることです。ですから、人間の理性に訴えれば躓かないのかもしれませんが、キリストの福音は実際躓きに満ちているのです。

 キリストの福音とはいったい何でしょうか。それは十字架の言葉です。十字架の言葉というのは、神の御子イエスが、私たち人間に神の愛を知らせるためにこの世に来られ、十字架で死なれたという教えのことであり、またその証しです。十字架の言葉は、今日でもそうですが、パウロの時代においても、人々に素直に受け入れられるものではなかったのです。「(18節)十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」このみ言葉のように、この教えは、人間的な知恵や知識で判断するならば実に愚かでつまらないものに見えるのです。つまり滅びに向かって歩んでいる人々と、救われて今いのちの完成を目指して歩んでいる人々とでは受け取り方が全く異なるのです。確かなことは私たち救われる者にとっては、「神の力」となっていることです。その力は人間の力ではありません。神の霊の力です。人々に愚かだと言われようが、神を信じている者は日々その力を体験しているのです。

 本日お読みした個所の前の17節には、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」とパウロの心構えが記されています。キリストがパウロを遣わしたのは、福音を宣べ伝えさせるためであり、その宣べ伝え方は「言葉の知恵」にはよらないのだと語っています。

 ここでの「言葉の知恵」とは、ギリシア的な雄弁術のことを言っています。「言葉の知恵」を用いて宣べ伝えるならキリストの十字架がむなしいもの、無力なものになってしまうというのです。自分はキリストの福音を語る時には、哲学的な衣をつけて雄弁に美辞麗句に満ちて格好良く語ることなどしない、十字架につけられたキリストをそのまま語るのだと言っているのです。ここでは十字架と知恵という二つのことが語られています。上からつまり神から賜わる十字架の福音と、下から生じる人間の知恵です。神から与えられた真理を語るのに人間の知恵はふさわしくない、なぜならキリストの十字架を無力なものにしないためには、人間の知恵を排除しなくてはいけないのだとパウロは語っているのです。

 ここでパウロはイザヤ書29章14節を引用しています。「(19節)それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。』」と。人間がとるに足らない自分の知恵で救われる者ではないことが、既に旧約聖書の中に預言されているのです。人間が自分の知識に頼らず、ただ素直な心で神を信じて祝福されることは今も昔も変わりません。イエスはこのように言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイによる福音書11章25節)

 パウロはキリストの十字架を嘲笑うこれら世の知識人に対して堂々と戦いを挑んでいます。「(20節)知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」ここに書かれている「知恵のある人」とはいわゆる賢い人のことで、自分の知恵を誇る人、今日でいう教養のある文化人のような人です。「学者」というのは律法の知識を頼みとする律法学者のような人のことで、「論客」とは思想家、今日の評論家のような人だと思います。

 そういう知恵ある人は「どこにいる」のだと、ここには三度も繰り返されています。パウロはこの世の知恵ある人の常識も、学者の意見も、論客の卓見も、人を救うということに関しては全く無力であると言います。それらは神の大能の前にはとるに足りないものであり、むしろそれらは愚かでさえある、そのような浅はかなこの世の知恵にすがってそれを誇っている人々こそ哀れであるというのです。これはキリストによる救いと平安を受けているパウロの確信の現れです。

「(21節)世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」もともと天地万物の中に神の真理は現れています。ローマの信徒への手紙1章20節に「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」と書いてあるとおりです。幼子のように素直な心の目で天界や自然を見るならば、そこに現れた真理を知ることができるはずです。しかし、多くの人は自分の知識を過信して心の目が曇り、神の御業を見ることができないのです。パウロ時代の人がそうであったように現代人もまた同じです。

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」すなわち、一見もっともらしい哲学的な表現をする言葉の知恵を離れて、世の人々が愚かだと思う福音そのもの、つまりイエス・キリストの十字架の出来事の事実をありのままに人々に提供することによって、人々がそれを純粋な心で信じるならばそこに救いがあるのだというのです。これはキリストによる啓示によらなければ、この世の知恵では神を知ることはできないということです。これはパウロ自身の救いの体験からきた確信だと思います。

「(22節~24節)ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 ユダヤ人とギリシア人は、古代社会における文明を代表する二つの民族です。ユダヤ人が代表するヘブライズムとギリシア人が代表するヘレニズムは、その頃の思想の二大潮流でした。ここには「ユダヤ人はしるしを求める」とあります。福音書では、イエスの所に来たユダヤ人はしるしを求めています(マタイによる福音書16章1節など)。このしるしというのは奇蹟のことです。不思議なわざを見せて欲しい、しるしを見て納得したら信じるというのです。これは宗教に何か目に見える御利益を求めているのです。これに対して知恵を求めるギリシア人は、理論的な知識を最高のものとしていました。ですから自分の理性的な精神を満足させる答えがなければ信じるに足る宗教ではないと主張していたのです。

 しかし神の真理は、そのような人間的な手段や方法によってわかるものではないのです。神の御心は聖霊の働きによる啓示によってはじめて把握されるものだからです。ですからパウロは、この世の人が恥とする十字架につけられたキリストそのものを宣べ伝えるというのです。福音の伝道にあたってパウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように、福音を宣べ伝えようと努力していました。確かにパウロは、ユダヤ人に対しては旧約の歴史から説き起こして彼らの民族魂に訴え、ギリシア人には自然宗教から説き起こして、その歴史哲学的な見解をもって教え、キリストの十字架の救いの事実に至るように努めました。

 しかし、パウロがコリントに来たこの時の心境は、2章2節にあるように、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」というものでした。パウロにとって福音とは、イエス・キリストの十字架において啓示された真理、すなわち、十字架の言葉以外のものではなかったのです。

 十字架の言葉がユダヤ人にとって躓きである理由の一つは、神から来られるメシア、救い主が十字架上に架けられるということは信じがたいことだったからです。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(申命記21:23)二つ目の理由は、メシヤが来る時には繁栄の王国が来ると考えていたからです。このことは、イエスの弟子たちにおいても同様でした。ですからユダヤ人が躓きを覚えたのは当然であったと言えます。

 ギリシア人にとっても十字架の言葉はもちろん愚かなことでした。ギリシア人にとって神というのは純粋な霊であり、最高の価値あるものでした。その神が人間となって歴史に生き、人間を愛して十字架の死を遂げるというようなことは、まったく愚にもつかない物語でしかなかったのです。

 ところで、こういう二つのタイプの人間はどの時代にも存在します。パウロはこれらの人々を前にして、どんなに躓きと見られ、どんなに愚かだと考えられても、十字架の福音をあいまいにしてまで彼らに同調しようとはしなかったのです。神は人間の意表をつくこの躓きとされ、愚かだと言われるやり方において、神の知恵と力を表されたのだと語るのです。事実、ひとたび神を信じた者にとっては、キリストこそが神の力であり、神の知恵なのです。このようにパウロにとっては信仰のない時には恥としか思えなかった十字架が、今は栄光のしるしとなっているのです。

「(25節)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架に架けられたキリストによって救われるというのは、確かに人間的には愚かに見えます。キリストは弱い者だと思うかもしれません。しかし神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。神はこの愚かと思える十字架の言葉をもって信じる者を救われるのです。

 教会はこの十字架の福音を委ねられています。社会の中で教会がこの真理を証していく時、信じた者たちもまたこの世的には愚かなもの、弱い者とされているかもしれません。しかしそれはキリストこそが知恵であり義と聖とあがないだからです。主に贖われた者はキリストのみを誇るのです。これからのアドベントの佳き時、イエス・キリストのおいでを心から待ち望んで過ごしたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)