時を支配される方

ヨハネの黙示録 1章1〜8節

 新年明けましておめでとうございます。2021年が過ぎ去り、新しく2022年が始まりました。新しい年の初めにこうしてご一緒に主なる神を礼拝できますことを心から感謝いたします。カレンダーや手帳が新しくなりますと、何か新鮮な思いになります。まだ白紙状態の手帳を見ますと、このところに何が書き込まれるのだろうと、期待と希望があふれてきます。2022年は世界にとって、日本にとって、また私たちの教会にとっていったいどのような年になるのでしょうか。先入観を持たずに、主の導きを信じて、新しい一日一日を主と共にたどってまいりたいと願っております。

 お読みいただいた「ヨハネの黙示録」の「黙示」というのは、先日もお話ししましたように、「啓示」とも訳すことができる言葉です。隠されているものの覆いが取り除かれて現れるという意味です。これはイエス・キリストについて解き明かしているのです。そして「(1節)この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」であり、それを、「(2節)ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。」ものです。

 また、この黙示録はヨハネが教会に宛てて書いた手紙であり、礼拝で読まれました。「(3節)この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」とあります。礼拝に集まった人たちが、神を仰いで神のみ前でこの預言の言葉を聞く時に、これらの言葉は神の言葉として語りかけて来るのです。そしてそれを守る時に、本当の幸いがあるというのです。ここに書かれている「幸いである」という言葉は、イエスの山上の教えで「心の貧しい人は幸いである、悲しんでいる人は幸いである、柔和な人は幸いである、義に飢え渇く人は幸いである、等々」と語られた言葉と同じです。そして、この黙示録の最後の22章にも「(7節)見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」と書かれて閉じられています。この黙示録は初めから終わりまで、まさに命がけで信仰を守っている人たちに対する応援と祝福のメッセージなのです。

 この黙示録が書かれたのは、ローマ帝国の時代で、ドミティアヌスが皇帝であった時です。彼はキリスト信者に対して最も過酷な迫害をしました。人々が信仰を守り、礼拝を守ることは命がけでした。この黙示録を書いたヨハネも、神の言葉とイエス・キリストを証したために捕らえられてパトモスという島に島流しにされていたのです。当時、ヨハネからこの手紙を受け取った教会というのは、礼拝堂もなく、人目を避けて誰かの家に集まって主を礼拝していたような小さな教会だったのではないでしょうか。そのように命がけで信仰を守っている人達にとって、あなたがたは「幸いである」と呼び掛けるこの手紙は、彼らにとっては大きな力であり、喜びだったと思います。

 4〜5節には、地上にあるこれらの教会への祝福の言葉が語られています。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」ここには七つの教会と書かれています。この後に書かれている七つの教会を指しているのでしょうが、七は完全数ですから、すべての教会に宛てた手紙だということができると思います。また七つの霊というのは聖霊のことです。神の御霊は一つですから、神の霊がそれぞれの教会にふさわしく与えられたということでしょう。

 この中に書かれている「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉は、この後の8節にも出てきます。私たちは普通、過去、現在、未来、というように時系列に並べて話しますが、ここでは「今おられ」というように、「今」という現在が一番先に出てきます。今、ここに私たちと共にいてくださる神、皇帝礼拝を強要されている厳しい社会情勢の中で、命がけで真の神を礼拝している人たちの苦しみのただ中に主がおられる、ということです。これは現在に生きている私たちにとっても言えることです。新型コロナウイルスの感染症が世界中に蔓延している「今」この時に、不安や恐れを抱えている私たちの只中に、あるいはこのウイルスに感染して痛みや苦しみ、悲しみの中におられる方々の中に、主が共にいてくださるということです。

 また、今、私たちと共にいてくださる主を知る時、このお方はかつてこの世におられ、十字架に架けられて死なれたお方です。しかしその死から復活されたお方であることを知るのです。あの十字架の出来事は過去のことであって、もう終わってしまったことではありません。今を生きる私たちの存在とその信仰の土台につながっているのです。二千年前に十字架の上で私たちの罪の贖いとなって死んでくださったイエス・キリストは、今ここにおられるのです。そして「やがて来られるお方」だと書いてあります。けれども原文にはこの「やがて」という言葉は入っていないのです。「今来られる」となっています。イエスは今ここに来たりつつあるということです。言い換えるなら、現在も過去も将来も、すべての時が神の御手の中にある、イエスはすべての時を通して存在されている神であるということです。この黙示録は、「今おられ、かつておられ、今来つつあられる方」を証ししているのです。

 黙示録にはいろいろな動物や数字が出てきますが、これらを一つひとつこの世の具体的な出来事に当てはめて考えるのは大変危険なことです。ここから将来に起こることを予想して説き起こそうとすることも危険です。大切なのは、この手紙が厳しい迫害を受けている中を命がけで礼拝している教会に宛てて書かれたものであること、その礼拝の中で読まれたものであることをしっかり覚えておきたいと思います。

 主にある信仰によって、私たちはいつもどんな時も主イエスが共におられることを信じています。このいつも共におられる主は、既に来られたお方ですが、終わりの時に再びこの世に来られるお方であり、今来つつあるお方です。ですから、私たちはいつも希望を持って、今のこの時を生きることできるのです。

 主なる神は言われます。「(8節)わたしはアルファであり、オメガである。」ここに書かれている「アルファ」と「オメガ」というのは、ギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字です。主なる神は、私たちが生きている今、この時間の流れの只中におられるのです。そしてさらにこの世の最後の時、歴史の終わりまで共におられるお方です。この「今」という時間は、神から出て、神に戻っていきます。歴史の時間のすべては神の御手の中に治められているということです。

 それは私たち一人ひとりの人生においても言えることです。私たちはこの時間枠の中で生まれ、生きて、そして死んでいきます。私たちは神によって息を吹き込まれて命が与えられました。そしてその人生の最後の息は神が受けとってくださいます。私たちは神から出て、神のもとに帰って行くのです。私たちの生と死は神のみ手に導かれています。このように私たちの初めも終わりも神のご計画の中にあるのですから、日々起こって来る出来事に一喜一憂することは本来必要ないはずです。

 新型コロナウイルスが世界中に蔓延している中、私たちはこの世の滅びを思ったり、自分の死を恐れて不安になったりします。しかし神は私たちを幸いな人生へと招いていてくださいます。黙示録を読んでいくと、終末のこととか恐ろしい状況が描かれていて不安になるかもしれませんが、私たちを怖がらせるために書かれたのではありません。そうではなく、イエス・キリストによる救いの福音を語っているのです。

 ここではイエス・キリストをいろいろな言葉で紹介しています。「(4〜5節)証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」「(6節)わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」何と素晴らしい恵みの神でしょうか。

 イエスは神の誠実な証人です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(ヨハネによる福音書1章18節)。」と言われているお方です。イエスは身を持って神の愛を示された、神の愛の証人でした。それ故に十字架に架けて殺されたのです。証人という言葉には殉教という意味もあります。証しすることは即、殉教を覚悟してのことだったのです。この手紙を読む教会の人たちも殉教を覚悟していたことでしょうが、その心を慰め励ましたのは、まず殉教されたのはイエスその人であったということです。そして殉教されたイエスは死者の中から復活されました。死はすべての人を襲い、その暗闇は誰にも図り知れません。しかし、実際イエスは死から復活されたのです。死者からの初穂でした。ですからイエスを通して死ぬ者もまたイエスと同じように復活することができるのです。殉教を覚悟して信仰に生きていた人たちは、復活の希望に支えられていたのです。

 私たちは生きていく中で、日々様々な困難や悩み苦しみがありますが、そのような私たちに絶えずキリストの愛が注がれています。ですから私たちはどんな時も希望を持って生きていくことができるのです。そして私たちを神に仕える祭司としてくださったのです。十字架の上で神の愛を証しし、復活されたキリストは、地上の私たち一人ひとりを王として支配しておられます。もちろん当時の人たちがこういう事態を実際に目にしていたわけではありません。これらのことは霊の目で見えることです。地上の王が権力を握り、キリストを信じる者たちを迫害して命さえもが危ない中で、この手紙は語っているのです。「キリストこそが地上の王たちの支配者であられる、あなたたちは王であり祭司なのだ。」と。

 そしてキリストが再び来られることを預言しています。「(7節)見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」今の時代にはキリストを知る人はわずかです。限られた人たちしか教会に集いません。しかしその日には、すべての人がキリストを仰ぎ見ることになるというのです。その時、キリストを十字架につけた人々は心痛めてキリストを見ることになるのだと。始めて自分たちがしたことに気づき、嘆き悲しむのだと書かれています。まさにその時にすべての人がキリストの前に跪くことになるのでしょう。そこに世界の希望を見ることができます。

「然り、アーメン。」私たちがお祈りの後でアーメンというのは、「本当にそのとおりです。」と祈りに同意することを示しています。黙示録にはアーメンが良く出てきます。厳しい迫害の中で希望を失いかけるような事態が起こって主の約束を疑いたくなる、そのような中でアーメンを唱え、厳しい中でも神の御心を確かなものとして信じ、受け止めていったのです。
 新しい年、私たちもまた主のみ言葉にアーメンの人生を送りたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)