神の知恵

コリントの信徒への手紙一 2章6〜16節

 このところ、私たちの会話の中に新型コロナウイルスについての話題が出て来ないことはありません。年が明けてから、オミクロン株の強力な感染力によって、感染者数が急拡大していますので、不安を抱くのは最もですが、世界中が新型コロナウイルスによって蹂躙されているかのように思えます。目に見えない小さなウイルスという微生物によって、人間社会が混乱に陥っていることは実に不思議なことだと思います。科学的な知識を獲得して宇宙を探索したり、いろんなことができるようになった人間であっても簡単に制御できないことがあるということです。

 この新型コロナウイルス感染症という危機を機会に、被造物である私たち人間は、その小ささ弱さ未熟さに気づき、大いなる神の前に本来あるべき人間の姿に立ち返ることが求められているのではないでしょうか。それは自分や自国の力を誇示し、欲望によって他者や他国をねじ伏せるような手段を用いるのではなく、相互に助け合い、相手を思いやる気持ちで生きていくことです。今、世界を見渡すならば、何とイエスの教えとかけ離れた価値観がはびこっていることでしょうか。今こそ、教会の存在が問われています。神の御子イエスが人としてこの世に来られ、罪深い人間に神の愛と赦しを説かれたのは、この時のためではなかったかと思わせられています。神のみ言葉こそが今の時代を生きていく人間の指針ではないでしょうか。今朝もパウロがコリントの信徒たちへ書き送った手紙から、神の教えを学んでいきたいと思います。

 先日もお話ししましたように、パウロは繰り返し、人が信仰を持つのは神の力によること、信仰はこの世の知恵によらないこと説いています。実際イエス・キリストの十字架は、知恵ある人間の目には愚かなことでした。多くの人は、もしイエスが神の子であるならば、そのような弱い惨めな屈辱的な姿はあり得ないことだと考えたのではないでしょうか。ですからキリストへの信仰を持つためには躓きとさえなっています。しかし、世間の人々が愚かだと思うこの出来事の中に、神の知恵が秘められているのだとパウロは言うのです。そしてそれは霊の目が開かれてこそ分かるものであって、どんなにこの世の知識が豊富で弁舌や理屈に長けていようとも、またそういうこの世の知恵や、この世の権力を握っているような支配者であろうとも理解されないものなのだと語っています。そのことをパウロはここで、この十字架の言葉は救われる者にとっては神の力であり、たとえようもない神の知恵なのだと力説しているのです。

「(6〜7節)しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵はなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」ここでパウロが「神の知恵」と言っているのは、神の奥義のことで、キリストによる人間の救いの一切のことを指しています。それは神の隠された真理です。その真理は神が私たち人間を救い出して神の栄光に与らせるために、世界の始まる前から御計画の中に秘められていた知恵だと語っています。それはこの世の知識や知恵では理解されないものだからです。「(8節)この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」とあるとおりです。

 そしてパウロはイザヤ書の預言の言葉を引用して、神の知恵がこの世の常識から遠く離れて隠されていることを示しています。「(9節)しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」(イザヤ書64章3節、65章17節参照)

 神の知恵と人間の知恵の間には大きな開きがあります。神は、人間が思い及ばない方法で人を救われるのです。人間が神を信じ神の赦しを受けるということは、どんなに多くの哲学書や宗教書を読んだとしても不可能なことなのです。御霊の助けによって、ただ神の前にある謙遜な心こそが神が求めておられるものです。この事は人類の歴史を通して、また私たち神を信じる者の体験を通していろいろな形で証しされています。

 ある牧師はご自分の体験からこのようなことを語ってくださいました。その週はいろいろな用事が重なってしまい、主日礼拝の説教準備がなかなかできなかったそうです。それでぎりぎり土曜日の夜中になって、手っ取り早く今までに話した説教の中からいくつかをつなぎ合わせてまとめ、急場をしのいだというのです。ところが、その日の説教が終わると、一人の方が立ち上がって、私はこれまでの生き方を悔い改め、イエスを信じて生きていきますと信仰を決心されたというのです。その牧師はとても驚いたそうです。人を救うのは私の言葉ではない、神の力だ、神の霊の力が働いたのだと強く感じたそうです。このような体験は他にもたくさんあると思います。十字架の福音は、数えられないくらい多くの魂を死から命へ移し替え、人類の歴史を書き換えているのです。神の御霊の働きによって、神の奥義がその人の霊に語られていることがよくわかります。

「(10節)わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」世の中には高度の学問を積んだ賢い人や権力を持った人がたくさんいるのに、それらの人には明らかにされず、無きに等しい私たちに神の奥義が示されているのです。それは神が御霊を送って私たちを助けていてくださるからに他なりません。ヨハネによる福音書16章13節で、イエスはそのことを語っておられます。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」イエスの救いの福音は、御霊によって明らかにされるのです。人間的にどんなに知恵や知識があったとしても、それだけで神の深い真理を知ることはできません。十字架による救いの福音という神の深いみ心を知ることができるのは神の御霊によるのです。「また、聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節参照)とあるとおりです。

 人間にはいろいろな思いや考えがあります。しかし、その思いや考えはその人自身でなければ誰にもわかりません。人の思いや考えはなかなか他人にはわからないのです。「(11節)人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」ここにあるように、神のことは神ご自身の霊によらなければわからないのです。ですから、私たちが聖書の言葉をどんなに文法的に解釈し、言語学的に研究したとしても、それだけでは本当の意味はつかめません。聖書は神の言葉です。人知では理解できない言葉です。その真理は「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネによる福音書15章26節)と説かれた真理の霊、つまり神の霊を受けなければ、その深い意味はわからないのです。

「(12節)わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」ここにあるように、私たちが神の救いを与えられたのは、神の霊をいただいたからです。ですから私たちは神の恵みを知って、日々感謝して生きることができるのです。さらには人間的な知識や知恵に惑わされず、神を求め、神に近づいて、霊的に成長することができるのです。この神から賜わる救いの恵みには、何の条件も必要もありません。それは人知を超えた神からの賜物なのです。私たちは神を信じた時からずっと、神の豊かな恵みの中に置かれ、導かれているのです。

「(13節)そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」神から賜わった救いの恵みは、人知を超えた真理ですから、それを語り伝えるために「人の知恵に教えられた言葉」を用いる必要はありません。そのような技巧的な方法をとらなくても、単純素朴に「霊に教えられた言葉」を使うのだとパウロが語っています。これはパウロが身を持って悟ったことだと思います。パウロはある時、人々から「弁舌はつたない」(コリントの信徒への手紙二11章6節口語訳聖書、「話しぶりは素人」新共同訳聖書)と評価されていたのです。しかし、霊のことは霊によって解釈されるのです。話し方が下手でたどたどしくても、真理の言葉は人の心に届きます。

「(14〜16節)自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

 福音の真理を理解するには、御霊の助けが必要です。「自然の人」つまり生まれながらの人はこの世の知識や知恵でしか判断できないので、その人が全力を尽くしたとしても神を知ることは難しいのです。さらにそれだけでなく、人は神を求めているようでいながら、実はその心に神の御霊を受け入れようとはしないものがあるのです。人間が神を知ることが難しいのは、神の方に問題があると考える人もいます。あるいは神があまりに高く神秘的だから人間が近づきにくい、理解しづらいのだと言うかもしれません。しかし実際はそうではなく、神がご自分を現わされても、人間の方でそれを受け付けようとしないものを持っているのです。

 それはどういうことかと言いますと、御霊の賜物というのは、神から賜わった恵みというのと同じものです。それはつまり十字架の福音ということになります。この十字架の福音、つまり十字架の救いは、本当に素朴で単純なことです。しかし十字架は人間を罪人として扱いますから、人間の誇りを傷つけるものです。ですから、十字架の福音は、神の御霊の前で謙遜にならない限り人間が喜んで受け入れられるものではないのです。人間は救われなければならない者ですが、それが分かっていても、多くの人はなおも自分の力で何とかなると思っているのです。十字架の贖いは人間には愚かに見えるからです。これは、私たち人間がいかに主なる神から遠く、主なる神を知ることができない者であるか、ということです。14節のみ言葉はそのことを語っているのです。

 神のことは神の霊によって判断する他ないのです。ここに書かれているように、神の霊に導かれた者だけが、神について判断できることがわかります。しかし、その人自身は誰からも判断され、裁かれることはありません。なぜなら神の御霊によって生きる者を判断し裁くことがおできになる方は、イエス・キリストだけだからです。神の御霊を受けた者はイエス・キリストのものなのです。これは、キリストを信じる者はキリストの思いを持っている者だというパウロの信仰です。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。」

 人間は神について知らない者ですが、人間は神に知られています。また、信仰を持った者は、聖霊によって神の御心を知らされているのです。信じる者の心には、み言葉が生きて働くからです。新しい年が明けて、もう既に二週間が過ぎました。厳しい時代に生かされている私たちですが、新しい週も、どんな時も共におられる御霊なる神を感謝して生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)