荒れ野に道を

イザヤ書 40章1〜11節

 つい先日までは沖縄、山口、広島の3県だけでしたが、新型コロナウイルス感染対策法に則り、東京都を含む13都県にも「まん延防止等重点措置」が適用されることになりました。目下全国各地で感染者が激増しています。人々の生活が制限されるようになり、私たちは今厳しい茨の道を歩いています。今朝はイザヤ書のみ言葉をお読みしましたが、ここに出て来る「荒れ野」というのは、今の私たちがたどっているコロナ禍にある社会の歩みそのものと言っても良いかもしれません。

「(1節)慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」ここでは、神が預言者イザヤに民を「慰めよ」と語っています。「慰める」という言葉の本来の意味は、深く息をすること、深く息を吸い込むことです。この「慰め」は「なぐさみ」ではありません。ただの憂さ晴らしや気を紛らわせて現状に目をつむってしまうことでもありません。聖書で語る「慰める」という言葉には、助けること、贖うこと、憂いの代わりに喜びを与えるという意味が含まれているのです。つまり現状をそのまま受け止める気休めの言葉ではなく、現状を新しく変えていく積極的な言葉だということをしっかり覚えたいと思います。

 その理由が2節にあります。「(2節)エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」主の御心に従わないイスラエルの民に対する厳しい刑罰として、バビロン捕囚という事実がありましたが、ここにはその囚われの刑期が終わろうとしていることが告げられています。これは神の恵みによってイスラエルの罪が赦されたという宣告でもあります。このことはイスラエルの民にとっては新しい出発です。一度は神の祝福から遠く離れていたイスラエルの民でしたが、もう一度神の民として回復され、神の都であるエルサレムに帰ることができるのです。神との交わりに立ち返ることができるのです。

 ですから、この1〜2節は、絶望や嘆きの歌などではなく、はるか上から響いてくる天上の声、天使の交唱なのです。この天使は直接的に何かを命じているのではありません。もう既に何かが始まっている、つまりここでは神の救いの歴史が始まっていることを告げているのです。「(3〜5節)呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

 ここの「荒れ野に道を備えよ」とは、そのような神の呼びかけに応えて、エルサレムへの帰還準備をすることを意味しています。ですから、「慰めよ」という言葉と「荒れ野に道を備える」ということはつながっているのです。神の恵みは、必然的に人間側がその恵みに応えて行動を起こすという責任をも要求しているからです。「荒れ野」というのは、具体的には遠くバビロンからエルサレムに続く広大な砂漠地帯である荒れ野を指していると思いますが、そこには現代のように整った道路などはありませんから、旅の道中には多くの障害があり危険が待ち構えていたと思われます。きっといろいろな外敵や危険な獣たちがいたことでしょう。そういう現実的な険しい「荒れ野」が存在しましたが、さらにもっと根本的なことを言えば、「荒れ野」とは、神とイスラエルの民との間の破れた関係を表しているとも考えられます。それが平らになり広い道になるというのです。

 現代社会に生きる私たちにとっても荒れ野は存在します。あらゆる意味で私たち人間を神の思いから遠く離しているものを「荒れ野」と呼ぶことができるのではないでしょうか。実際、今の時代を生きている私たちは、内外に大きな問題を抱えています。個人的な事だけでなく、世界各地には国々や民族に関わる大きな問題がたくさんあります。今や、グローバル化した世界は、政治的、経済的に密接に繋がっていますから、資本主義経済の発達と共に顕在化した富の偏在化、つまり貧富の差が拡大し、人間の格差が拡大するという、倫理的問題が表面化してきました。世界中に自然の破壊や人間の命が大切にされないという「荒れ野」が広がっています。経済成長だけでは人間は幸せにはなれないということです。

 確かに戦後の日本は、復興のためにひたすら働いて経済成長を目指し、物質的なことによって問題を解決してきた歴史がありますが、今、人々は心に飢え渇きを感じているのです。イエスが語られた「人はパンだけで生きるものではない(マタイによる福音書4章4節)。」という言葉の真実が今ほど実感されることはないのではないでしょうか。コロナ禍の今こそ、人間の生き方、社会の在り方を考え直す時に来ていることをひしひしと感じます。今の人間社会はまさに「荒れ野」ではないだろうかと思うのです。では、そのような「荒れ野」に「主の道を備えよ」ということは、どういうことでしょうか。

 預言者イザヤは、ここで「慰めの福音」を聞いたのです。「(1節)慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。」私たちは今主を信じるものとされてここにいます。先月はクリスマスの恵みをいただきました。神が私たち人間を救うために、その独り子をこの世に送ってくださったという驚くべき出来事です。すなわちイエス・キリストの誕生とその御生涯、そして十字架と復活の出来事を通して、私たち人間は、最も荒れすさんだ罪という荒れ野で打ちひしがれていたところを救い出され、その赦しが与えられたのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と呼ばわるのは、その服役の期間がもはや終わって、その咎は既に赦されているのだという福音のメッセージです。預言者イザヤはこの言葉の中に、神からの罪の赦しの福音を聞いているのです。

 福音、それは聞くことから始まるとパウロが語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマの信徒への手紙10章17節)。」ですから、信仰とは、既に完成され成就されている神の出来事に耳を傾けることです。それを聞いて何か修行したり、力を振り絞って努力しなければならないことではないのです。ただ神が語ることに耳を傾けることです。福音とは神からの慰めなのです。

 イザヤはここで捕囚の民イスラエルの人たちの心に神からの愛の言葉を語っているのです。長い間捕囚となっていたイスラエルの民は、心を閉ざし、心が頑なになっていたかもしれません。「主は私たちを見捨ててしまわれた、主は私たちを忘れてしまわれたに違いない」と、人々の心は空しくなり、その心は砂漠や荒れ野のようになっていたのでしょう。イザヤはそれらの人々の心に神の御心を伝える言葉を語ったのです。人々の心に染み入るまで、誠意の限りを尽くしてイザヤは語り続けたのです。

 この時のイザヤの心境が6節から書かれています。「(6〜8節)呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」頑なに心を閉ざし、まるで荒れ野にいるかのような心で呻吟している捕囚の民の中にあって、ここにいるイザヤも無力でした。「何と呼びかけたらよいのか」と尋ねています。彼は自分が神の言葉を宣べ伝える力も方法も持たない無力な人間であること、その力は野の花のようにその場限りであるのを良く知っている人間でした。彼は人間世界のはかなさと無常を知っていました。イザヤが当時の深く荒廃していた人間世界を知り、神の前にある人間の罪の現実と、その罪に対して神の御手から受けるべき罰の現実をも認めていたことがよくわかります。

 福音というのは、こうした人々への慰めです。その慰めは厳しい現状を根本的に変えていきます。虚無と荒れ野のような世界に生き、罪の重荷に呻いている民と預言者イザヤ自身に、今や新しい希望の現実が伝えられました。イザヤは生きることの空しさを嘆きつつも、目に涙をためて神の勝利の足音に耳を澄ましています。それが福音です。見捨てられて捕囚を体験している民が、今や再び「わたしの民」と呼ばれているのです。これが福音です。

 福音は大いなる転換をもたらします。9〜11節にそのことが書かれています。「(9〜11節)高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

 これは、人間世界のはかなさや無常観に陥り、虚無の世界にいたイザヤが、神の召命を受けて預言者になっただけでなく、ほかのイスラエルの同胞に向かって、福音を語る者になるようにと言っているのです。イザヤは今や福音を聞く者から語る者になっていったのです。それだけではありません。心を頑なに閉ざし、神からの新しい未来の開始を拒んでいたイスラエルの民もまた福音を伝える者になり、ユダの町に「見よ、あなたたちの神が来られる。」と告げる者に変わっていったというのです。

 私たちも今、イエス・キリストを通してこの福音を聞いています。キリストによって私たちはこの慰めを聞いています。それは「荒れ野に主の道を備えよ」と命じられた神ご自身が、この現実の荒れ野の中を私たちに先立って進んでおられるのだということです。私たちが自分の知恵や力によって道を備える前に、神ご自身が既に道を開いていてくださるのです。

 新しい年がこの先どのように進んでいくのか、行く手は何もわかりません。しかし、私たちの信仰の土台は、私たちのために罪の赦しと永遠の命を与えられた復活の主が先立って進んでおられることにあります。この主の恵みの中に私たちは生かされています。私たちのいる荒れ野が今どのような状況であろうともそれは問題ではありません。置かれている状況がいかに厳しい荒れ野であろうと、自分が置かれているこの荒れ野のただ中に神が共におられることを知り、私たち一人ひとりに与えられていることを喜んでなしていくことではないでしょうか。どんな荒れ野の中であっても先立つ主を仰ぐ時に、私たちには新しい希望と勇気が与えられることを信じて生きていきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)