人を裁くな

ルカによる福音書 6章37~42節

 新型コロナウイルスのオミクロン株の新規感染者が急増し、「まん延防止等重点措置」が出されている中ですが、万全の注意を払いながら本日の礼拝を迎えております。どうか、一日も早く“コロナ禍”が収束するように願いながら、日々を過ごしていきたいと思っております。

 ルカによる福音書からのメッセージが続いておりますが、本日箇所は、6章37節から42節までです。先に、本日箇所に至るまでの流れを簡単に確認してから、本日箇所に入りましょう。イエスさまは、十二使徒選びの後、平地に下り、本格的な伝道に入られましたが、集まって来た、大勢の弟子たちを見て、「あなたがたは」と、親しく呼びかけながら「幸い」とされる人々、「不幸」とされる人々について教えられました。すなわち、「今貧しい人々、今飢え渇いている人々、今泣いている人々、あなたがたは、人の子すなわち、このわたしを信じ、従うゆえに、今は苦しんでいるかも知れない、しかし、天では大きな報いがあり、御国に招かれ、そこに、あなたたちの居場所が用意されている。そのため、あなたがたは『幸い』である。」逆に、「今富んでいる人、満腹している人、笑っている人は、先の人々のように、やがて受けるであろう幸いを、すでに受けてしまっている、だから、あなたがたは『不幸である。』」と言われたのでした。

 その段落の言葉を受けながら、さらに本日箇所直前の段落(27節~36節)では、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがた」と呼びかけ、かつ、「御国への招きが約束されていて『幸い』とされる人々」のことを強く意識しつつ、「敵を愛しなさい、自分に対して悪口を言う人のために、また侮辱する人のために祈りなさい。」等々、弟子として苦難の中で、どのように生きるかを教えて来られました。そして、その結びの言葉、35節、36節では、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と、「幸いの約束」の再確認をされていました。

 この35節、36節の言葉を受けながら、本日の段落37節、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」と入っております。このように、主イエスが使徒選びに続き、平地へ下っての、教えの数々は、それぞれ互いに関連性を持たせつつ、弟子としての心構え、更に具体的な生き方等を教えているのです。
 なお、37節の冒頭の原文には、“そして”を表す文字(ギリシア語で「カイ」)が入っており、そのまま読みますと「そして、人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」となり、ここにも、直前段落との繋がりの深さを実感することができます。ここで、37節、38節全体に目を通しますと。「人を裁くな」、「人を罪人だと決めるな」、そして、「赦しなさい」、「与えなさい」と、大切な教えが続いています。
では順番に、37節a「人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」に関して、主イエスは、この世の一般的な裁判制度を無視したり、教会の規則を無視することを勧めているのではありません。ルカ福音書12章13節、14節に、群衆の一人がイエスさまに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」との頼みに対して「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と、ユーモア交じりのお言葉を返しています。

 続いて、37節b、「人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」この、“人を罪人だと決めるな”に関連し、お馴染みのイエスさまの教えの箇所を、ヨハネによる福音書8章1節~11節に見ることができます。主イエスが、神殿の境内で教えておられたところへ、律法学者、ファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきて、真ん中に立たせて言いました。「先生、この女は姦通をしているとき捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と、イエスを試そうとしたのです。このときイエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」これを聞いた者は、しばらくして、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女のみが残りました。イエスは、身を起こして、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問い、そしてその後、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と仰いました。

 確認ですが、この時イエスさまは、その女性に“罪がなかった”と言われれているのではなく、“あなたの罪は赦された、これからは罪を犯さないように”と言われたのです。わたしたちは、この出来事を、“単なる他人事”として聞き流すことは許されません。特にここで“年長者から始まって”の言葉には、心に迫ってくるものを感じさせられます。

 38節に入ります。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(なお、ここで「与えなさい」の言葉は「与え続けなさい」と言う意味なのです。)さらにこの“与えなさい”とは、物質的なものに限らず、自分の時間や努力、更には自分自身をも献げなさい、との意味をも込めた、非常に重い教えです。“押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。”について、与えてくださるその主(ぬし)とは、二つ前の段落で、今は、貧しく、飢え渇きを覚えてはいるが、やがて、御国へと招き、そして「幸いな人」としてくださるかた、すなわち、主なる神ご自身なのです。

 後半、39節から42節までの段落に入ります。39節「イエスはまた、たとえを話された。として以下42節まで、「 」で括り、三つのたとえをもって、弟子たちに教え、諭されています。その、三つとは、①「盲人が盲人の道案内をすることができようか。」、②「弟子は師(先生)にまさるものではないが、十分に修行を積むことによって師のようになれる。」そして、③「兄弟の目にあるおが屑が見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」等々です。なお、これらの三つのたとえは、当時すでに流布していた譬えを、ユーモア交じりで用いているのですが、これから人を教え導く弟子たちにとっては、決して聞き流しにはできない、教訓です。そして、今日のわたしたちにとっても然りです。

 ではこの教えの意味を聞いていきましょう。39節「――、盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」についてです。まず初めに、“目が見える、見えない”と言うことについて、主イエスはどのような意味でこの言葉を用いているのか、このことを、マタイによる福音書15章1節~14節から見ることにします。主イエスに対し、ファリサイ派の人々や律法学者らが“あなたの弟子たちは食事の前に手を洗わない”と律法の規定に反していることを訴えたのに対して、「口に入るものは人を汚すことはない、人を汚し、傷つけるのは、不用意に用いる、口から出る言葉である、このことに気づいていないあなたがたこそ目が見えていない(心の目、そして、信仰の目の意味)のだ。」と、彼ら(ファリサイ派の人々、律法学者)を諭されたのです。39節でイエスさまが言われているのは、指導者にとって、最も大事な心の目、信仰の目のことです。

 次は40節です。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」この教えの言葉は、よく理解できます。弟子がその師(すなわち先生)の教えの真意をよく汲み取り、さらに修行を積んでいくことにより、師(先生)に近づいていくことはできます。
 主イエスは、過越の前に、弟子たちの足を一人一人洗われた後「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと模範を示したのである。」と言われました。ここで、イエスさまが言われた“互いに足を洗い合う”とは、“へりくだって互いに人に仕え合う”ということであり、教会の中だけでなく、外に向かっても、非常に大切な教えであることを思わされます。

 次は、いよいよ最終節、41節、42節からです。42節のaまで、先ず見ていきましょう。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑をとらせてください』と言えるだろうか。」とあります。このたとえには、誇張があり、またユーモアさえあります。しかしわたしたちにとって、このたとえは、他人事ではなく、わたしたち自身のことを諭されているのです。主イエスの呼びかけにも、「あなたは」(41節冒頭)とあり、また続いて「兄弟の」(すなわち「兄弟姉妹」のこと)とあります。わたしたち自身が、主にある兄弟姉妹として、主の福音を外に向かって伝えていく群れとして、まず相手を尊重し、自分自身をよく見つめ、自分自身の弱さを自覚することから、すべてが始まるのです。人はとかく、自分自身の欠点を、過小評価しがちなものです。

 主イエスさまは、わたしの言葉を聞いているあなたがたは、と呼びかけながら、敵を愛し、祈りなさい、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。」との黄金律を残されました。そしてその教えの言葉の数々は「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」へと結びながら、本日箇所へと移り、「人を裁くな」、「罪びとだと決めるな」、「赦しなさい」、「与えなさい」と、主の弟子としてとても大事なことの数々をお教えくださいました。

 御子イエス・キリストは、地上のご生涯の最後に、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と父なる神に、すべての人の罪の赦しを願い求めてくださったのです。このことに、わたしたちは感謝しても仕切れません。これからもわたしたちは、主の弟子として、今までの教えの数々をわきまえながら、確かな日々を歩んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)