真実な土台

コリントの信徒への手紙一 3章10〜23節

 新型コロナウイルス感染状況がなかなか落ち着きませんが、本日もこのように礼拝堂で皆さんとご一緒に主なる神を礼拝できますことを心から感謝いたします。
 普段、私たち一人ひとりはそれぞれの場で信仰生活をしていますが、信仰生活というのは同時に教会生活でもあります。信仰者は教会人として生きているのです。教会とは信仰の建物を指しますが目に見える教会もあれば、目に見えない教会もあります。建物がなくても教会は存在するのです。9節に「あなた方は神の畑、神の建物なのです。」と書かれていますように、パウロは私たちの信仰や教会のありさまを建物に例えています。

 パウロは神によって使徒としてたてられてからは、主の福音宣教のために3回にわたる大伝道旅行を試みています。交通の便の極めて困難な時代ではありましたが、シリアのアンテオケ教会を基点として、小アジアの全域をめぐり、マケドニアやアカヤ(今のギリシア)、そしてローマへと地中海を巡る諸国に主の福音を語っていきました。パウロは一か所にあまり長く滞在することはなくて、もっぱらその地に教会の土台を据えることに力を注いだのです。

「(10節)わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」とあるとおりです。自分で「熟練した」と語っているのは何か傲慢に聞こえるかもしれませんが、神の恵みに絶対的な信頼を置いていたパウロの賢明なやり方を示すもので、「知恵のある」とも訳せる言葉です。建物がしっかりと建てられるためには、堅固な土台が必要なことは誰もが認めることです。

 ある牧師はこの個所を語るのに、東京丸の内にある帝国ホテルの建物のことを話しています。帝国ホテルはライトというアメリカの建築家によって建てられたものですが、その基礎工事は大変なものだったそうです。地面を岩盤まで掘らせて土台を据えたので、工事関係者の苦労は並大抵ではなく、基礎工事にものすごい時間とお金がかかったと言われています。しかし、1923年9月1日に起きた関東大震災の時、周囲のほとんどの建物は崩壊してしまいましたが帝国ホテルだけはびくともしなかったのです。それは土台がしっかりしていたからだと言われています。

 イエスは山上の説教の最後で、御言葉を聞いて行う人のことを、堅固な岩の上に家を建てた賢い人に例えています(マタイによる福音書7章24〜26節参照)。同じように、パウロは教会を建築物に例えて土台の大切さを語っているのです。そしてパウロが据えた土台とはイエス・キリストでした。つまり、教会がイエス・キリストに対する信仰をしっかり持っていること、イエス・キリストがその教会を治めておられることが大事だということです。「(12〜13節)この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」

 建築する者にはそれぞれ役割があります。パウロは目立たない基礎の部分である土台を据えることに専念し、土台の上に建てられる建物は他人に任せたというのです。それをするのはパウロの同労者、あるいは教会の信徒たちだったでしょう。それぞれが教会を建てる建築家であり、またその素材です。ここには「だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」というように、素材として永久に朽ちないものと、一時的でやがて消滅するものとが書かれています。ここで「火」とは、聖霊の火のことをいうのでしょう。パウロの据えた土台の上にどのような建物を築くかは自由だけれども、教会を建て上げる営みのすべては、終わりの日に真実な意味で試されるのだというのです。もちろんこれは実際の建物のことではなく、各自の信仰によって建てられた教会のことを言っています。かの日にはその仕事が残るものもあれば焼き尽くされるものもあるということです。

「(14〜15節)だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」キリストという揺るがぬ土台の上に建てたものでも、もし神の御心にかなわない業があるならばそれは滅び去り、御心にかなったものだけが残るということは当然なことかもしれません。しかしこれらの業は私たちが成した仕事、事柄であって、私たち自身ではないということがここで強調されています。つまり、土台の上に建てた仕事が御心に適わないからと言って、私たち自身が滅ぼされるのではないということです。「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」とあります。人が破壊されてはならないのは、人が神の神殿であるからです。人は神の御霊が宿っている大事な者、神にとっては愛おしい存在だからです。人が成した仕事に対して厳しい判断をするパウロですが、その仕事をする人間に対しては、神からの救いがあることをはっきり明言しています。

 信仰を持つ人間が大切な者であるということは、神の御霊が宿っておられる神の神殿とされているということです。「(16〜17節)あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」このことは、私たちキリストを信じる者がよく認識していないといけないことだと思います。そのことをわきまえて、決して神の神殿である他の人、つまり隣人を破壊するようなことをしてはならないのです。隣人を愛し、神にすべてを委ねて生きることが大切だということです。信仰の土台である真実なる神イエス・キリストの救いと守りを信じて、私たちはいかにして神に仕えるかということを常に考えて生きていきたいと思います。

 さて、神殿というのは神に出会う場所です。神殿は祈りの場所でした。信仰を持っている者はいつも祈ります。そして最も素晴らしいことは神を礼拝する者であるということです。私たち、神を信じる者が神の神殿であるということは、絶えず神を礼拝し、祈り、讃美し、感謝と喜びに生きているということなのです。「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」このパウロの言葉を読むと、まるで私たちの、信仰の無い弱い心が見通されているかのように感じます。パウロは「あなた方は自分では神の神殿であることに気づいていないかもしれないが、神の御霊はあなた方の内に宿っているのですよ。」と言っているのです。自分が神の神殿であることが分かれば、いっそう心から神を愛して礼拝し、神に仕える心が起こされてきます。

 ところで「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。」これはどういうことを言っているのでしょうか。「神の神殿を壊す者」当時はキリストを信じる者に対して迫害がありました。嫌がらせや個人攻撃もあったでしょう。「神はその人を滅ぼされる」この言葉は誠に恐ろしいことを語っています。しかし私たちには神がどのようにしてその裁きを行われるのかわかりません。ただ一つ分かるのは、神がそれほどまでに神を信じる私たちのことを心にかけていてくださるということです。この神殿を破壊する者がいればその人を滅ぼす、というのは、それほどまでに神の神殿である私たちのことを大切に思っていてくださるということです。その守りと愛に感謝し、心を安んじて神の神殿として与えられている使命を全うしたいものです。

 信仰生活は神の神殿である私たちの身体を離れては成り立ちません。神が私たちの内に住んでいてくださるのです。ここで注意したいのは、あなた方は複数形ですが、「神の神殿」は単数形で書かれていて二つの意味合いがあることです。キリストを信じる者たちが集まっている群れである教会が神の神殿であり、その一人ひとりもまた神の御霊が宿る神の神殿なのです。そして私たち一人ひとりの人生は神の神殿(つまり教会)建築の材料でもあるのです。私たち信仰者は聖なる神の神殿であり、神の国建設のために労する働き人の一人でもあるということです。

 ところがここでパウロはくぎを刺すように語ります。教会を建て上げることで力を発揮し、立派な行為をしたとしてもそのことで思いあがってはいけない、ということです。「(18節)だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」人間が最も錯覚しやすいのは、自分を賢い者、知恵ある者だと思い込むことです。本当に知恵ある者になるためには、むしろ愚かな者になりなさいと言っています。そして聖書の言葉を引用して、この世の知恵が神の前ではどんなに愚かなものであるかを語っています。「(19〜20節)この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」(19節は詩編94編11節から、20節はヨブ記5章13節からの引用)

「知恵が愚かで、愚かさが知恵」とはこの世の考えの反対です。しかし、このことの背後にはコリント教会内部の争い事が潜んでいると思われます。だれもパウロやアポロやケファという人間を誇ってはならないということです。ここでは、人間の権力争いの中で、知恵ある者が自己主張しているという事実を指摘していることは明らかです。知恵ある者にとっては、神が愚かに見えるかもしれませんが、それは神が人間の自己主張とは真逆である自己犠牲をその本質とされているからです。神の御子が十字架に架けられ、人間の罪にために死なれたことが信仰生活の始まりであり、教会生活の基本にありますが、これを愚かなこととするのでしょうか。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(コリントの信徒への手紙一1章25節)」とあります。神は天地を創造し、これを支配しておられるお方です。それに対し人間はその中に生きている小さな者に過ぎないのです。この世の知恵は神の前では愚かなものです。この世の知恵は神の知恵には遠く及びません。

 ここではまず何よりも自分が知恵ある者だと思うようなうぬぼれを捨てなさいということでしょう。そして同時に、自分を生かしているキリストの恵みを見損なってはいけないということでもあると思います。ここで「自分を欺いてはなりません。」とパウロが語っているのは、神の恵みを知り、そこに根差して生かされている自分に対して忠実でありなさい、というパウロからの愛の戒めです。

「(21〜23節)ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」

「すべてはあなたがたのもの」「一切はあなたがたのもの」「あなたがたはキリストのもの」「キリストは神のもの」このようにキリストの救いの力と勝利の中に生かされる時、世にあるすべてものをご自分のものとして支配なさっておられる神の大きな存在に気づかされます。キリストを信じる者は救われて、神の子となり、神の国の相続人とされているのです(ローマの信徒への手紙8章16〜17節参照)。キリストが万物の主である以上、キリストを信じる者は世の終わりには、主と共に万物を相続するのです。そのことがここに約束されています。そういう意味では、すべてのものはキリスト者のものであると言えます。そしてそれらすべてはキリストを信じる者の功績ではなく、主なるキリストからの賜物です。だからパウロは「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」と言っているのです。

 今、世界は暴力によって他国に侵略する国があり、国と国が争い、そのことによって多くの人の命や生活が犠牲になっています。互いに愛し合いなさいという神の御言葉を、ひとりでも多くの人が心に留め、キリストの平和が来ますようにと心から祈っていきたいと思います。そのためにも私たちは新しい週も、真実なる神に信仰の土台を据えて、そこから力を受けて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)