目を覚ませ

ヨハネの黙示録 3章1〜6節

 今日はヨハネの黙示録3章のサルディスにある教会に宛てた手紙から、主の御言葉を聞いていきたいと思います。今までアジアにある七つの教会の一つひとつに宛てた手紙を読んできましたが、サルディスにある教会は五番目の教会で、先日のティアティラにある教会の東南にあり、ここからさらに東南に下ると最後の七番目の宛先であるラオディキア教会があります。ここにある七つの教会はすべて現在のトルコ共和国の西海岸近くにあります。

 サルディスは、昔リデヤ王国の首都でした。ここは古くから羊毛の集散地で、交通の便もよくて、商業が発達していました。今も昔も、商業が盛んな土地は活気があります。様々な物資が行き交って人の出入りも多く、富裕な都市だったようです。ところがサルディスは紀元17年に大地震に遭いました。大きな被害を受けたようですが、その時にローマのティベリウス帝の尽力によって復興できたというので皇帝への恩義を感じ、皇帝礼拝も盛んであったと言われています。

 これらの七つの教会に宛てた手紙は、それぞれの教会に宛てた手紙が七つあって、それらがここに集められて編集されたのではありません。黙示録全体が一つの手紙なのです。ここに登場する七つの教会はどの教会も、黙示録を書いたヨハネと何らかの関係があったようです。その七つの教会に宛ててこの黙示録全体が送られたのです。つまり、ある教会にこの手紙が送られてきたら、それを礼拝で読んで、読み終えたら次の教会に届ける、というように、回し状のようにして読まれたのです。当時も今も世の中にはいろいろな教会があります。手紙ではある教会は褒められていますが、ある教会は問題点を指摘されています。自分たちの教会のことがどのように書かれているか気になりながら読んだと思います。いろんな評価が下されているのですから、まるで教会の成績書が読み上げられているかのように互いの教会のことがあからさまにわかったわけです。

 これらの手紙を読んだ人たちは、これは自分の教会にも当てはまることだ、これは自分たちのことではないかと思って読んだかもしれません。歴史の中に生まれたすべての教会は、この黙示録を読む度に、これら七つの教会に宛てた手紙はどれも皆、自分たちに宛てた手紙であると受け止めて読んだのです。それはつまりどのような教会であっても、これらの七つの顔やそういう側面を持っているということです。どの手紙に書かれていることも、どの教会に言われていることも、しっかり聞かなくてはならないと思います。

 さて、サルディスの教会には、外から何か攻撃を受けたとか、迫害を受けたとか、誤った教えが教会の中に入って来たということは書かれていません。むしろサルディスの教会の中にいる人たちに問題がありました。それは彼らが気づかないうちに、心が鈍くなってその信仰態度が世俗化して、安易さに流れていったようなのです。

「(1節)神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。」七という数字は、神の完全性を象徴しています。1章16節にも「右の手に七つの星を持ち」とありましたが、ここにある「神の七つの霊と七つの星とを持っている方」というのは、復活したイエスのお姿です。キリスト・イエスが今サルディスの教会に語っているのです。

「(1節続き)わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」これは大変厳しい言葉ですが、どういうことを言っているのか考えてみたいと思います。世の中にはいろいろな教会があり、教会によっては活気がなくて、いつも玄関の戸が閉まっていて、人の出入りがほとんどないところもあります。死んでいる教会と聞くとそのような印象を持ちます。また外面だけの教会もあります。形が整っていて立派な礼拝堂が備わった教会であっても、その中味が問題で、その実態は死んでいるところもあります。つまり呼吸していないのですから、何の活動もできていない教会のことです。

 サルディスにある教会はいったいどういう状態だったのでしょうか。商業都市ですから商売熱心な人が多くいて町の中は活気があったかもしれませんが、教会は形だけで実は死んでいるような状態だったのでしょうか。物質的には富んでいたかもしれないが、霊的には死んでいるような状態だというのでしょうか。ここを読むと思い出されるのは、パウロがコリントの信徒への手紙二6章8節で語った「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており」という言葉です。サルディスにある教会に対して言われたこととは全く逆です。

 ところで日本語に訳されたこの「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」という言い方は間違えやすいのですが、死んでいるのがその人の本当の姿で、生きているのは名ばかりで実体ではないと受け取るなら、それは読み間違いになります。聖書では名前は大変意味深く重いのです。名前を軽んじることはしません。「あなたが生きているとは名ばかりで」と訳されている文章は、原文を直訳すると「あなたは生きているという名を持っている」となるのです。「あなた」とは教会です。教会は私たち一人ひとりですから、私たちは「生きている者」という名前なのです。この名前は神がつけてくださいました。主なる神が私たちを生きる者にしてくださり、私たちは「生きている者」という名前を持っているのです。それなのに死んでいるというのは、名前に背くことではないかと言われているのです。

 私たちは皆それぞれ自分の名前を持っています。名前はとても大切で、その人の存在そのものを表します。「名は体を表わす。」という言葉がありますが、名前はその人の実体を言い表していて、その人そのものなのです。私たちが名前を書く時は、それに責任を持つことを意味しますから、何かに署名する時には、本当に同意できる事柄であるかしっかり確かめなくてはなりません。ですから自分の名前を書かずに匿名で言ったり、書かれたものは、あまり信用できません。責任を持って書いていないからです。インターネットでのやりとりでは、ハンドルネームというのがあるそうですが、自分自身を隠して物を言うのですから、今問題になっているようにフェイクニュースが本物のように出回り、大変危険です。

 5節に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」とありますが、神の御元には、永遠の命が約束された者たちの名簿「命の書」があって、そこには、神の救いに与った人の名前が記されているというのです。教会では、神を信じてバプテスマを受け、教会員になった時には、教会原簿に名前を記しますが、神の御元にある名簿にも名前が書かれるのです。もちろんそちらの方がもっと重要です。きっと数えきれないたくさんの名前が書いてあるのでしょう。そこに私たちの名前も記されて、神の子どもと呼んでいただけるのです。そのようにして神がつけてくださった名前、それがあなたは「生きている者」という名なのです。ところがイエスがご覧になると、サルディスにある教会の人たちは、その名に反して死んだような状態だったのです。

教会はキリストが満ち満ちている所です。人間的にどんなに活気があっても、信仰が死んでいては本当に「生きている者」とはなれません。それならばどうしたら良いのでしょうか。「(2節)目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。」イエスは「目を覚ませ」と言われます。信仰が眠っていてはいけないのです。眠っている信仰はぼんやりしていて、はっきりと神の教えが聞き分けられず、あるいは神が求めていることが分かりません。これはキリストを見失った状態です。キリストなしに私たちは「生きる者」とはなれません。

 そして少しでも生きている者は、死にかけている残りの者たちを強めよ、と言われています。冬山で遭難した時の様子を思い浮かべるとお分かりでしょう。寒さの中で眠ってしまったら死んでしまいますから、眠りそうな人を一所懸命起こすのです。私たちも同じです。いろいろな問題に囲まれているといつの間にかキリストを見失って死にかけてしまうのです。ですから互いに励まし合い、声をかけて力づけて、信仰の死から逃れなくてはならないのです。本日、伝道開始60周年記念誌が皆さまのお手元に配付されましたが、教会は一緒に信仰の戦いをしている仲間がいます。何と感謝なことでしょうか。

「(2節)わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。」この世には誰一人完全な人はいません。私たちがなす行いもまた不完全です。しかし不完全であることが問題ではないのです。神はそれを百も承知です。私たちがそのことを自己弁護して神のみ前に置かないことが問題なのです。自分の力では何事も神の前に良しとされることができないことを知ることです。私たちはキリストによる贖いの業を通して神の恵みによって義とされ、「生きた者」となるのです。ですからキリストを見失った時には私たちは死んだ者となってしまうのです。

「目を覚ましていなさい。」イエスは弟子たちによくこう言われました。ゲッセマネの園で祈られた時、三人の弟子たちにそう言いましたが、彼らは眠ってしまいました。聖書の中で霊的に目覚めるということは、聖霊の油をいただいて、心の目を開いていることです。目を覚ますために必要なことは、「(3節)だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。」とあります。私たちが信仰に与った時に何を聞いたのか、また何を受けたのか、それを思い起こして守りなさいということです。

 信仰は私たちの頭でひねり出したものではありません。どなたかに教会に誘われて行って、どなたか立派な先生から福音を教えられたわけですが、真の神を信じる心は、神の御霊を通して、神ご自身から受けたものです。人は聖霊によらなければイエスが主であるとは言えません。キリストに立ち返った時に、私たちは真に「生きている者」になることができます。悔い改めるということは、方向を変えるということです。間違った方向に進んでいたことに気づいて、方向転換することです。ティアティラにある教会に宛てた手紙には「今持っているものを固く守れ(2章25節)わたしの業を終わりまで守り続ける者に(2章26節)」というように、初めの愛に立ち返ることが求められていました。このように、絶えずキリストのもとに立ち戻り続けることが、目を覚ましているということなのです。信仰とは日々繰り返し繰り返し主に聞き続けることです。神の恵みに与る信仰という点では、私たち人間は乞食のようにその日暮らしの生き方をしていると言っても過言ではありません。

 このように、私たちは神を信じる信仰によって「生きている者」とされました。さらには白い衣を着せられます。「(4節)しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。」サルディスにある教会には、少数ながらその衣を汚さない人がいました。つまりどんなに混乱して敗れ果てた教会にも、そこに主の生ける御言葉が宣べ伝えられている限り、そこには主と共に歩んでいる神の民がいるのです。イザヤ書1章に書かれているように、キリストの十字架の御血によってきよめられた民であり、キリストによってぬぐわれた白い衣を着ています。そして白い衣は天の祝宴に与る衣なのです。

「彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。」神が与えてくださった「生きている者」という名前にふさわしく、私たちはキリストと共に生きていくのです。いいえキリストが私たちといつも一緒に生きてくださるのです。私が大変な時も、辛くて苦しくて悲しい時も、私と共に私の人生を生きてくださるのです。世の中の人からは、私たちは無力で貧しくて死んでいるように見えるかもしれませんが、神を信じる者は、主にあってすべてのものを所有しているのです。何よりも私たちは主の者とされたことを感謝し、喜び、その信仰によっていつも安心して生きることができます。「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」ここにはイエスの太鼓判が押されています。弁護者イエスは、この者はわたしの者だと言ってくださるのです。このような恵みの神を信じる信仰が与えられたことを感謝し、新しい週も日々主イエスと共に歩ませていただきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)