レギオンからの解放

2022年8月14日 主日礼拝

ルカによる福音書 8章26節~36節
牧師 永田邦夫

 本日の礼拝は、平和礼拝です。今年は第二次世界大戦の終戦(敗戦)から77年を迎えました。さらに先の8月6日は広島の、そして9日は長崎の原爆記念日でした。これらの記念日は、世界平和を祈り、二度と戦争は起こさない、ということを誓う日でもあります。しかし、未だ世界平和は築かれておりません。平和どころか、逆に今この時も、戦争が続いており、また、対立や争いが絶えることがありません。毎年この時期に思わされますことは、我が国、日本は世界に向けて「核の廃絶」を強く訴え、自らも「核を絶対に保有しないこと」を世界に向けて発信していくべきだと痛感させられています。なお、わたしたちの日本バプテスト連盟から出されております「平和に関する信仰的宣言【平和宣言】」は、聖書の十戒(出エジプト記20章1~17節)に基づいていますが、その前文の冒頭には、「『平和をつくりだす人たちは、さいわいである』と主イエスは言われる。しかし今、世界は敵意に満ちている。殺戮と報復が果てしなく繰り返され、絶望が支配しようとしている。十字架の主イエスはこの世界において審きと和解を為し、解放と平和を告げ知らせ、私たちを復活のいのちへと導かれる。」と始まっています。わたしたちは、この「平和宣言」のことも覚えながら祈っていきたいと思います。

 早速本日の説教箇所に入っていきましょう。本日箇所は、主イエスが、ガリラヤ伝道の終わりの頃の、弟子訓練も兼ねての伝道のことが記されておりまして、その中に、主イエスがなされた奇跡の業が、三つ続いております。本日の説教は、この中からの説教ですが、先ず初めに、その三つの奇跡とはどんな出来事であったのか、を簡潔に見ておきましょう。
 
 最初の奇跡は、直前の8章22節からの段落で、主イエスが弟子たちと一緒に、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされたときのこと、突風に襲われ、恐怖の中にいた弟子たちは、そのとき眠っておられたイエスさまに、自分たちの恐怖を訴えました。するとイエスさまは起き上がり、風と荒波をお叱りになると、静まって凪(なぎ)になった。イエスさまは弟子たちに向かい、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と諫(いさ)められたのです。そのとき弟子たちは、「この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と、驚きの言葉を言った、との出来事です。
 
 これに続く二番目の出来事、それは、ガリラヤ湖を渡った“向こう岸”すなわち、異邦人の地デカポリスのゲラサ人の地で起きた出来事であり、これが本日の説教箇所で、後ほど詳しく見てまいります。続く三番目の出来事について、主イエスほか一行がガリラヤに帰ってからのこと、会堂司ヤイロと言う人の、十二歳になる一人娘が死にかけていたときのこと、「家に来て、みていただきたい」と主イエスに依頼があったが、主イエスがそこに向かわれる前に、十二年間長血で苦しんでいた女性が来て、主イエスはその癒しを先に行っている間に、先の、ヤイロの娘は死んだ、との報が入った。これを受け、駆け付けた主イエスは、「娘は死んだのではない。」とのお言葉の後、「娘よ、起きなさい。」と呼びかけられると、「娘は起き上がった、そして食事をした。」との、二つの奇跡が重なって起きた出来事でした。
 
 では、本日箇所、26節からの段落に入っていきます。26節に「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」とあります。この「ガリラヤの向こう岸」は直前の段落で、主イエスさまが弟子たちとともに目差した“向こう岸”であり、また上陸した、“ゲラサ人の地方”とは、当時は、ギリシアの植民地で、デカポリス(「10の町」と言う意味)と言われた異邦人の地の中の一つの町でした。なお、異邦人伝道は、復活の主のご命令(ルカによる福音書24章47~48節、使徒言行録1章8節)に従って主の弟子たちにより本格的に展開されていきますが、本日のゲラサ人の地での伝道は、いわば“異邦人伝道の先取り”でもあった、との解釈ができます。

 27節には「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」とあります。主イエスが上陸され、そこに悪霊に取りつかれている人がやって来たことによって、早速そこに現地の人との接点が出来ました。そして、やって来た人が“悪霊に取りつかれていた人”であったことにより、そこから、さらに大きな出来事が展開されていくのです。
 
 その男は長い間、衣服を身に着けず、すなわち裸で、家に住まず墓場を住まいとしていた、“墓場を住まいとする”それは、この世の人が生きている場所と、死んでから行く場所の、いわば接点となるような場所です。そして次の28節、29節には、「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」とあります。
 
 その男の人が、主イエスを見るなり、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と懇願したのは、主イエスが汚れた霊に対して、その男から出るよう命じたため、といいます。また、その男の人の言葉から、主イエスさまを「神の子イエス」と、すでに理解していたように解釈することが出来ます。ここで大切なのは、この男の人がイエスに懇願した言葉の根底にある、心の状態、そして、その心の変化です。なぜ主イエスさまに向かって、「かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」と言ったのか、です。普通に考えますと、自分が長い間、苦しんできたその病気の原因を、このイエスさまが取り除いてくださる、治してくださる、と前向きに考えそうです。しかしこの男の人は違います。イエスさまが自分と係りをもつことを嫌っています。それは、今の状態から自分が変えられ、その、変えられた環境の中で生きていくことを極端に恐れていたのです。
 
 29節後半には「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。」とあります。ここには、「汚れた霊に」、そして「悪霊によって」と二回繰り返されていて、この男の人は、悪霊に完全に虜にされていて、自由が奪われていることがわかります。そして世間の人からは、鎖でつながれ、足枷をはめられ、監視されている、ここには全く自由が見られません。
 
 今日この社会で起きている、大きな事件や巨悪な事件を考えますと、当人自体の本来の性格よりも、その人の置かれた環境や、その人に取りついている悪霊、汚れた霊の仕業としか思えない、そのような出来事が多いことに気づかされます。では、ここで「悪霊」あるいは「汚れた霊」とは何かを、見ておきましょう。当時のユダヤ人の考えでは、悪霊が肉体に入り込み、その人に重い病気を与え、また、その人を悩ますと考えていました。主イエスさまは、弟子たちを独り立ちさせ、使徒として派遣するにあたり、「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」と次の9章の1節にも記されております。
 
 聖書の本日箇所に戻ります。悪霊に取りつかれている人の様子を詳しく示した後、30節に、主イエスはその男の人に向かって「名は何というか」とお尋ねになると「レギオン」と言った、とあります。この遣り取りには、非常に丁寧さを感じ取ることができます。“名は体を表す”と言われますが、人同士が“お互いに自分の名を証し合うこと”それは、信頼関係がそこにあることの表れでもあります。今日の社会に横行している、いわゆる“オレオレ詐欺”は、その真逆で、人を如何に騙すか、自分を明かさないか、であって、これは絶対に許されないことです。
 
 主イエスからの「名は何というか」の問いかけに、この男の人は「レギオン」と答えました。レギオンとは、当時の支配国ローマの、6,000人部隊の名前からです。想像ですが、この男の人は、6,000人部隊に対して、何か怖い経験があったのかもしれません。自分の中に強烈にその印象が残っていて、脳裏から決して離れることがなかった、そのように考えることができます。

 続いて31節「そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。」とあります。ここからは、この出来事の中心がその男の人でなく、取りついている、“悪霊ども”を中心として語られているのも注目です。では、その悪霊どもが言っている「底なしの淵」とは、どんな意味でしょうか。「底なしの淵」(口語訳聖書や新改訳聖書では「底知れぬ所」とあり)とは、最後のさばき(再臨の主による最後の審判)を待つために、悪霊どもが一時的に閉じ込められている場所(ローマの信徒への手紙10章7節、ヨハネの黙示録9章1節、3節など)を言います。

 次は32節、33節に「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」とあります。その結果、悪霊どもの方はどうなったのでしょうか(そのことは記されていません)。

 兎も角、ここで考えなければならないこと、それは、人間一人の命と、沢山の豚との比較の問題です。豚の数は、福音書並行記事のマルコによる福音書5章13節には、「二千匹ほどの豚」と記されています。悪霊との引き換えにより、とてつもない数の豚が死んだのです。この記事に対して、人ひとりの命との引き換えに、被った経済的損失を、なぜイエスさまは許されたのか、と詮議だてする人もいる、とのことです。

 しかし、人間ひとりの命、そして、その存在は、何ものにも代えがたいほど尊く、また重いものです。また、今日の世相に目を移しますと、人の命が余りに軽視され、粗末に扱われるような、痛ましい事件が後を絶ちません。何とかしたいものです。聖書のこの後の結末を見ていきますと、町や村の人がこの出来事を聞いてやって来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着て正気になって、イエスの傍に座っているのを見た、と記されています。これを見た人々にとっては、さぞ、大変な驚き、そして、目を疑う出来事だったことでしょう。

 主イエスさまがその土地を離れようとされたとき、正気に戻ったその男の人は「自分もお供をしたい」と申し出たがイエスさまはその人に、「自分の家に帰って、神が自分になさったことを周りの人に伝えなさい」、つまり、周りの人に伝道しなさい、と言われたのです。わたくしたちも、日々の驚きや経験を周りの人に言い伝え、共に伝道の歩みに励んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)