義人はいない

2022年9月25日 主日礼拝

ローマの信徒への手紙 3章1~20節
牧師 常廣澄子

 前回は2章の後半の御言葉から聞いてまいりました。自分達は神に選ばれた民であり、その証拠に割礼を受けていることや、律法が与えられていることを誇っていたユダヤ人に対して、パウロは神の正しい裁きについて語っています。今朝お読みしたところは、その続きです。

「(1節)ではユダヤ人が優れている点は何か、割礼の利益は何か。」という問いから始まっています。それに対しての答えが2節ですが、「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」とありますように、神の言葉はまずユダヤ人に与えられました。神の言葉はそれを真に受け取る人を御言葉にふさわしく造りかえる力を持っています。しかし、この点でユダヤ人は躓きました。律法に込められている神の御心を忘れて、その外面的な形に執着してしまったからです。神の言葉が持っている人間に対する神の愛の精神を離れてしまったなら、割礼には何の意味もなくなってしまうのです。

 2章28-29節にありましたように、「肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」パウロは、体に施された割礼が神に喜ばれるのではなく、心に施された割礼こそが真の意味で神に喜ばれることなのだと語っています。「心に施された割礼」といっているのは、神によって新しく生まれ変わることです。救い主イエスに出会って、イエスにしっかりと結びついて生きている人は、心に割礼を受けているのです。コロサイの信徒への手紙2章11-12節には、「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。

 私たちが御言葉の宣教によって、神を信じる者とされたように、神は今日もすべての人間に対して、御言葉を通して語りかけておられます。ですから、御言葉を神の言葉として真剣に受け取る人には、計り知れない神の祝福があります。神の御言葉は私たちを神に近づけ、救いへの道を示し、神との幸いな交わりへと導いてくれます。今、私たちはどのように聖書の御言葉を受け取っているでしょうか。ただ自分の聖書を持っているだけ、ただ聖書を読んでいるだけの者になっていないでしょうか。心を開いて、神からの語りかけである聖書の御言葉を聞いているでしょうか。日々、御言葉によって養われ、いつも御言葉が私たちに命を与え、力づけていてくれるでしょうか。

 とにかく、そのような素晴らしい神の御言葉に対して、不誠実であったユダヤ人でしたが、だからといって神は語られた言葉とその約束を無になさるようなお方ではありません。「(3-4節)彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」とありますように、神の誠実は、たとえユダヤ人が不誠実であったとしても、たとえ多くのユダヤ人が心から信じ従っていなくても、神は人間に対して誠実に御言葉の約束を成就されているのです。

 神は人間をお造りになられたお方です。その人間を愛する心で語られた御言葉は、完全に信頼できるものなのです。聖書の歴史では、特に士師記の時代やイエスが福音を語られていた時代、ユダヤ人は次々と起こる出来事に対して誠実に向き会おうとはしませんでした。にもかかわらず、神は御自分の民を見捨てず、彼らを導かれました。御言葉は必ず成就され、信じる者は大きな祝福に与るのです。神はご自分で語られた御言葉に忠実なお方です。「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実」(詩編33編4節)とあるとおりです。

「(4節)人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」
これは、詩編51編6節からの引用ですが、これを歌ったダビデのように自分を低くして、自分がいま置かれている状態を知り、まず自分の罪を認めて悔い改め、神の前に自分を明け渡す時に、神からの約束として完全な罪の赦しが与えられるのです。

 ここには、すべての人は偽り者であるとされています。しかし、神は真実で聖なるお方ですから罪を憎まざるを得ないのです。また、神は罪を憎むが故に罪を罰せざるを得ないのです。つまり神は義であり聖なるお方であられるが故に、罪を罰するのです。ここには神の究極的な姿があります。

「(8-9節)それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」このように、9節にはすべての人間はことごとく神の前に罪人であることが宣言されています。私たち人間は、罪(神から離れて生きている状態)を悔い改めて、神のもとに帰らなければならないのです。

 キリスト教はすぐに罪の話を持ち出すから嫌いだという人が多いですが、「すべての人は皆罪の下にある」ということは、キリスト教の基本的な教理であり、救いに至る前提です。たしかに罪を指摘されることは愉快なことではありません。しかし人間が神の前に出る時に必ず立ちふさがるのは罪の問題です。この罪の自覚という狭い門を通らない限り、神による真の救いを得ることはできないのです。病気に罹った人が自分の病気のことを知って、その治療のための方法や薬を求めて快復への一歩を踏み出すように、人間は罪を自覚することによって、神の前にある人間の正しい生き方へと導かれるのです。そして神の救いに与ることができます。ですから、パウロはまず、すべての人は神の前に罪人であることを知らせているのです。

 このことを納得させるために、パウロは幾つかの聖句を引用しています。「(10-12節) 次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」これは詩編14編1-3節の御言葉から来ていますが、もとの詩編には「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないかと。」という句が入っています。神の目から今の人間世界をながめるならば、偶像を神だと思っている人はいても、真の神を探し求める人はいないし、この世の成功や繁栄を血眼になって追い求める人はいても、心の目を開いて真剣に神を求める人はいないのです。すべての人は生きる目標を失い、あらぬ方向にさまよい歩き、互いに愛し合い、助け合って生きようとする意志も力も持ち合わせていないのを悲しみ、嘆かれているのです。

 次の13-14節を見てみましょう。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、」これは詩編5編10節やその他からの引用です。ここでは神から離れている人ののどを「開いた墓」に譬えています。ユダヤでは岩の斜面に横穴を掘ってそこに亡くなった人の遺骸を葬りました。ですから何かの拍子に入り口に置かれた石が転がると、中のものが丸見えになりました。そのように人の喉は内面の邪悪な心を表しています。人の舌はなめらかに優しい言葉を言いますが、その奥ではあくどい計画を隠していたり、その唇で語る言葉には人を死に至らせるほどに猛烈な毒を含んでいるというのです。さらにその口は人の失敗や不幸を喜ぶ呪いと、人の成功や幸福を妬む苦味で満ちているのだとも語っています。人間の心の奥に潜んでいるこのような恐ろしい有様を読みますと、これらは少し誇張しすぎではないかと思うかもしれませんが、人間の心をすべてご存じの神の峻厳な立場からご覧になれば、これらはことごとく確かなことなのだと思います。

 続いて「(15-18節)足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」ここにはイザヤ書59章7-8節などの引用が入っています。人間の悪い心は口から言葉として出るだけではなく、その人の行動として現れます。聖書の中で足は行為の象徴として使われています。人間の悪意から出る行動は、遂には暴力や殺人事件にまで発展するのです。そしてそれは自分や他人の生活を破壊し、人の世に悲惨さをもたらします。そのような人は平和が来ることなど求めません。逆に人々の間に不和や争いが起こることを喜ぶのです。そしてこれらの悪はすべて「神に対する畏れ」のないところから生じるのだと御言葉は語っています。これらの人間像は何と暗く恐ろしいものでしょうか。しかしこれこそが人間の偽らざる本当の姿なのだと思います。しかしそれでは、このような罪を罪とも思わず、不信仰を不信仰と感じない人はいったいどうなるのでしょうか。

 この問いに対して、実はそのような人のためにこそ律法が与えられているのだとパウロは語るのです。「(19節)さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」ここで「すべての人の口がふさがれる」というのは、どんなに自分は正しいと主張したくてもそれはできないということです。神の光に照らされて自分のすべてが明るみに出されるならば、人間はもはや自らを義(正しい)とすることなどできないのです。逆に自分は神の前に大きな負い目があることを認めざるを得なくなります。すなわち神は、自分の罪を知るようにと律法をお与えになったのです。ここでの律法というのは、狭い意味ではユダヤ人の律法、すなわちモーセの十戒や旧約聖書に書かれた教えですが、広い意味ではあらゆる民族の中にある道徳律、あるいは良心の働きを意味しています。

 つまりすべての人は、成文化された律法、もしくは心の中にある良心、あるいは何らかの道徳的基準を与えられているわけですから、それらに照らして自分の言行を顧みるならば、自分がその基準から外れているかどうかがわかります。たとえばモーセの律法はユダヤ人に善悪の何であるかを知らせますし、いろいろな民族の道徳は彼らに物事の善悪を示します。ですから普通の判断力を持つ人間であるならば、自分の思うことややっていることに対して善悪の判断ができるはずなのです。そうであれば、だれ一人神に対して言い逃れすることはできません。「(20節)なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあります。

 多くの人は、律法や道徳というのは、それを守り行なって立派な人間になるためであると考えています。この考えは決して間違ってはいません。確かに律法を守ることができたなら誰でも立派な人間になれるでしょう。ただ問題は、律法が教えることを完全に守れるどうかということです。ある種の律法を外面的形式的に守ることはできるかもしれません。しかし、あらゆる律法を内面的に心から守ることは人間には不可能です。ある欲望は抑えることができたとしても、すべての欲望を制御することなどとういていできません。隣人を愛するようにと言われても、好きな人を愛することはできても、嫌いな人を愛することはできません。まじめに誠実に律法を守って道徳的に生きようとすればするほど、自分にできることがいかに少なく、できないことがいかに多いかに気づくのです。結局いくら律法を守ったとしても、これで十分だという確信を得て良心を安んじることはとうていできないのが人間なのです。

 ではなぜ、そのような律法を神は人間にお与えになったのでしょうか。この問いに対してパウロは20節にあるように、律法の本当の目的は人を義とすることではなく、人に罪を自覚させることにあるのだと言っているのです。律法があることによって人は善悪を知りますが、それだけでなく、律法を守り得ないということで、自分が罪人であることを悟るのです。生来の自分の力では律法を守り得ないことがわかって始めて自分自身に絶望し、自分以外の聖く力あるお方に目を向けざるを得なくなるのです。そのように自我を捨てて神に向かう時、そこに神の導きの御手が伸べられます。
そしてその人の前には真の神へつながる道が備えられていることを心から感謝したいと思います。

(牧師 常廣澄子)