光は世に来た

2022年12月25日
主日礼拝『 クリスマス礼拝 』

ヨハネによる福音書 1章6~18節
牧師 常廣澄子

 皆さま、クリスマスおめでとうございます!
子ども讃美歌にもありますが、クリスマスは「うれしい、たのしい、クリスマス」です。
ではクリスマスがおめでたいのはなぜなのでしょうか。
私たちは何をお祝いし、何を喜び、何を感謝するのでしょうか。
それは、本日の週報のガリラヤの風に永田邦夫牧師が書いてくださいましたが、クリスマスが光を感謝するお祭りから始まったことからもわかるように、神の御子イエス・キリストこそが義と愛の太陽であり、人間を照らす光としてこの世に来てくださったことを喜び祝う時だからです。
クリスマスは主の光がこの地上に来たことを感謝する時、またその光を心に感じる時なのです。

 クリスマスになると、商店街にはきらきら輝く飾りつけがなされますし、あちこちに光のプロムナードができて人々が美しい光の芸術を楽しみます。暗い夜に美しい光に囲まれて過ごすことは大変ロマンチックで素敵なことです。でも、それはあくまで人工的な光でしかありません。クリスマスが終わればまた取り外されてしまいます。けれども本当の光、人間を照らしてくれる光は消えることがありません。どうぞこの世に降って来られた本当の光である神の御子イエスを知り、心に受け止めていただきたいと心から願っております。

 昨夜のイブ礼拝でもお話ししましたが、御子イエスの光が人に届けられる時、その光はその人の心を照らして、はっきり明らかにその人自身を見ることができるようにしてくれます。それと同時に光は先の見えない不安や暗闇にいる恐れを取り除いて安心感を与えてくれます。また人間は光によって自分のいるところがわかってきますと、進むべき道も見えてくるのです。するとその光はその人をあたたかく支えて守り、導き、惜しみなく喜びと祝福を注いでくださるのです。

 そういう意味で、御子イエスの誕生はすべての人にとって知らなければならない、全世界的な出来事であると思います。確かに世界で一番初めのクリスマスの出来事は、多くの人々が知らない間に起こったことではありますが、その不思議な驚くべき出来事は、そのことが起きてから今までずっと二千年以上にわたって世界中の人々に語り伝えられているのです。今は聖書という書物を通して、世界中の人達に知られるようになっています。教会でも各ご家庭でも毎年クリスマスには馬小屋に聖家族がおられるセットや人形を飾りますが、それを見る度に、神の人間に対する驚くべきへりくだりと貧しく小さく弱い者へのいたわりや優しさの現れを感じます。クリスマスはきらびやかな権力を示す時ではありません。神が人間に愛と救いを示された時です。いと小さく弱く貧しい者に神の善意を届ける時です。痛みや苦しみの中におられる病む方々へ癒しの恵みをもたらす時なのです。

 今朝お読みした個所は、クリスマス物語と同様に、クリスマスに読まれることが多い御言葉だと思います。それは1節から18節まで、神の「言」としてのイエス・キリストについてひたすら語っているからです。ここには馬小屋も星も幼子も博士たちも出て来ないのですが、ここには神の御子イエスがお生まれくださったということが、ヨハネによる福音書独特の深い魅力ある書き方で言い表されています。

 その御子イエスの誕生に先立って、まず一人の人がたてられていたことを見ていきたいと思います。「(6-9節)神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 ここでは御子イエスのことを「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と語っています。そして、ここに出て来るヨハネという人は、光として来られた御子イエスを証しする人として登場しています。そしてそれは「すべての人が彼によって(光を)信じるようになるためである」と言われているのです。他の福音書では、このヨハネについてさらに詳しく書かれています。このヨハネは、バプテスマのヨハネと言う名前で知られていて、預言者のように神の審判を告げてユダヤ人に悔い改めを迫り、悔い改めて彼のもとに来た人たちにヨルダン川で水による洗礼を授けていたのです。

 このヨハネはイエスとどのような関りを持っていたのでしょうか。ルカによる福音書によれば、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアとは親戚であり、二人とも天使ガブリエルによって男の子を産むと告げられ、お腹に赤ちゃんがいる時に三か月の間一緒に過ごしています。この二人が成長していく過程について聖書は触れていませんが、イエスが世の光としての神の国を宣べ伝える行動を開始した時、ヨハネはその先がけとなって、喜んで光について証しする者となったのです。

「(14節)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここには、イエスのことが「父の独り子としての栄光があり、恵みと真理とに満ちていた」と言い表され、その後にこのように書かれています。「(15節)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」ヨハネはここで声を張り上げて言ったのです。この「声を張り上げる」というのは、ただ普通より一段と大きな声で叫んだということではなくて、神が示された真理を告げるということです。つまり神の言葉を語る預言者として語ったのだ、という独特の表現なのです。ヨハネは声をあげて「よく聞きなさい。わたしの後から来られる方は、わたしより優れているのだ。」と人々に告げたのです。

 そして「その方はわたしよりも先におられたからである。」と語ります。実はヨハネの方がイエスよりも半年くらい先に生まれていますので、普通に考えるとおかしいのですが、この言葉は1節の「初めに言があった。」という御言葉と密接に関連しているのです。ヨハネが言ったこの言葉は大変大切なことで深い意味が込められています。この後のところで、ヨハネが自分のことを証していますが、その30節にも同じ言葉が繰り返されています。バプテスマのヨハネについてはまた別の機会にお話ししたいと思いますが、彼が成した仕事は本当に偉大です。自分は光ではない、光であるお方を証しするために来たのだと語って、終始自分を来たるべき方に比べて小さなものとして行動し、人々を主なる神へと導きました。そして自分の果たすべき役割を果たした後には従容として死を受け入れていったのです。

 さらに重要なことは、「(16-17節)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」とあることです。わたしたちというのは、この福音書を書いたヨハネはもちろん、ヨハネにイエスのことを伝えた人も、このヨハネを通して信仰を持った人たちも皆入っていることでしょう。そのように、イエスを信じている者たちがイエスについて語り合う時、皆が一様に思っていることは何かと言うならば、誰もかれもがイエスというお方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けて生きてきた、いや今も生かされている、ということを語っているということです。そのことは、この当時の人たちだけではありません。今を生きている私たちにとってもこの御言葉は生きています。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」神の恵みについてのこの素晴らしい言葉を吟味してみたいと思います。「恵みの上に、更に恵みを受け
た」というところは、もとのギリシア語は恵みと恵みが対立しているという表現です。私たちの生活では、片方に置いてある物ともう一方にある物の対価が同じであれば交換できます。釣り合うからです。この洋服が5千円ならば、5千円を支払えばその洋服を手に入れることができます。このところでは、一方に神の恵みがあるとして、それに釣り合う物としては何かあるのかがわかるのです。

 私たちは神の恵みを受けるために何をしたら良いのでしょうか。律法の世界では、私たちは何かそれに見合う行為や善行をしなければなりませんでした。そうしなければ神の祝福は得られなかったのです。しかし何ということでしょう、ここでは神の恵みに対しての対価となる物、それに見合う物は恵みしかないと言っているのです。私たちが神の恵み、神の祝福をいただくためには、まず土台となるのは神の恵みを知って受け取ること、私たち人間に対する神の愛を知って神を信じることだけです。私たちを愛してくださるというのが神の恵みですが、その恵みを知る者にはさらに恵みが与えられるのだと言っているのです。ですから「恵みの上に、更に恵みを受けた」というような表現になっているのでしょう。神の愛を信じて生きる者は神の恵みの中に生かされているということができます。何と慰めに満ちた言葉でしょうか。ここにクリスマスの希望の根拠があります。

「(12-13節)しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」ここでは、その素晴らしい恵みを受け入れ、その名を信じる人々は、神の子とされると言われています。そして主を受け入れた者は上からの光に照らされます。信じる者は光の子と言われているのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」(エフェソの信徒への手紙5章8節)

 ではそのような神を見たのかと言われれば、神を見た者は誰もいないとしか言いようがありません。「(18節)いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」御子イエスのことを、ここでは「父のふところにいる独り子である神」と説明していますように、御子イエスだけが父なる神のみ胸に宿る御心をもっともよく知っておられました。その御心とは、神が人間を深く愛しておられること、その人間に対して神の恵みの中を生き生きと生きて欲しいということです。

 イエスはそのような父なる神の恵みの力を持ってこの世に送られてきたのです。そして神の御心を示してくださいました。神が誰にも見えなくて、誰にも分からなかったことを、イエスが示してくださったのです。だからイエスを知ることが神を知ることになるのです。このクリスマスは、この世に来られたイエスを通して神の愛を知る時、神の光を感じる時です。どうか私たち一人ひとりが神の恵みの中を、御子イエスと共に生きる者でありますようにと心から願っております。


(牧師 常廣澄子)