朽ちない冠

2023年2月19日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 9章19~27節
牧師 常廣澄子

 私たちは今、コリントの信徒への手紙を読み進めていますが、パウロがキリストの福音を自由に語っている姿を見るとほんとうに感動します。パウロが各地を訪問して、あらゆる人たちにキリストの福音を語っているのは、彼の持っている大きな人類愛であったと思いますが、ある意味で、それは自分のような反逆児にさえも現れてくださった復活のイエスに対する感謝の現れです。そして同時に、そのイエスを遣わされた神に対する負い目でもあったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙の1章14節には「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」というように「果たすべき責任」とまで言っています。パウロはキリストの福音を語ることでの様々な苦労を、キリストの十字架の苦しみ、あるいは自分が迫害してきたクリスチャンたちの苦しみに重ねていたのかもしれませんし、何よりもその働きをすることを、神の御前にあって大変光栄なことだと感じていたのではないでしょうか。

 9章1節には「わたしは自由な者ではないか。」とありましたが、本日お読みした19節でも「わたしは、だれに対しても自由な者ですが」とあります。しかしその後には「すべての人の奴隷になりました。」と書かれています。奴隷というのは自由が与えられていない者のことですから、自由な者と奴隷とは全く相反する言葉です。では自由な者であるパウロが奴隷になるというのはどういうことなのでしょうか。
これは自由であることを止めて奴隷になったというのではなく、自由でありながら奴隷になったということでしょう。誰の奴隷かというと「すべての人の奴隷」になったのです。これはすべての人に仕えるということです。それこそが主の御前に生きているパウロの証しです。

 自発的にすべての人の奴隷になっただけではありません。20節から22節には、パウロがキリストの救いをわかってもらいたくて、様々な努力をしている様子が書かれています。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。律法に支配されている人に対しては、パウロ自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。

 そしてその目的は「できるだけ多くの人を得るため」でした。つまり真の神を信じる人たちが起こされるためだったのです。「得る」という言葉には、「もうける」という意味が含まれています。商業都市コリントでは、世間の人たちは金儲けに血眼になっていましたが、神の人パウロはここで「人もうけ」に一生懸命だったのです。人を得るため、人を漁る漁師として働いていたのです。

 21節に「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。」とありますが、こここで「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人ではない異邦人のことです。パウロはユダヤ社会にあるがんじがらめの律法社会からは脱しましたが、まったくの無律法ではありませんでした。パウロは今、キリストの律法の中にあるのです。そしてキリストの律法というのは、人間をいたずらに拘束するものではなく、心から喜んで神と人を愛する教えです。

 22節の「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」これを読むと、8章のところで、偶像に供えた肉を食べるのは悪いことではないだろうか、と戸惑うような「弱い人」に対して、その人達をつまずかせないように、パウロもまた肉を食べないと決心したことを思い起こしますが、たとえ自分の行動を制限したり、停止したとしても、相手の思いを尊重し、相手の思いを引き受けて生きるということです。パウロは神と人を愛する広く大きな愛によって、使徒としての立場や権利も自由人としての自由もことごとく放棄して、つまり自分を無にして、どのようにしたら彼らがキリストに捕らえられ、キリストによる新生に与れるだろうかと、必死で考えているのです。

「(19節」わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」「(21節)律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。」「(22節)弱い人に対しては、弱い人のようになりました。」これらの文章で使われている「・・・になりました」(エゲノメエン)という言葉は心を打つ言葉です。世の中には、格好だけ、まねて見せる人がいます。一時だけ「なって見せて」誇る人が多いのです。「王子と乞食」という童話があります。一日だけ服装を変えて王子と乞食が交代する話ですが、これは「なった」のではありません、ただ変装しただけです。しかしパウロは奴隷になり、律法を持たない人のようになり、弱い人のようになったのです。

 パウロのこの態度、すなわち「すべての人の奴隷になり、律法を持たない人のようになり、弱い人のようになった」という態度を、打算的で人に媚びている態度だと思う人がいるかもしれません。パウロは相手に媚びてそのようにしたのでしょうか。いいえ違います。なぜなら一つひとつにその目的が書かれています。そこには「できるだけ多くの人を得るためです。」「律法に支配されている人を得るためです。」「律法を持たない人を得るためです。」「弱い人を得るためです。」「何とかして何人かでも救うためです。」と書かれています。

 パウロの目的は、「何とかして何人かでも救うため」なのです。救うというのは、相手のあり方、生き方をただそれでよいと肯定して放任するのではなく、相手の存在をいまより良い方向に変えることでなければなりません。パウロは自分でその祝福を体験していました。ですから目の前の相手をキリストのために得よう、救われる人を起こそうと一生懸命励むのです。それはひたすらキリストの福音の為です。「(23節)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」とあります。できるだけ多くの人をキリストのもとに導きたい、というパウロの熱い思いが伝わってきます。「何とかして何人かでも救うため」というのは、他者の救いについて語っていますが、同時にパウロ自身もさらに福音の恵みに与っていきたいという願いが込められています。ここには、自分の権利や立場を何一つ用いず、ただ福音のためにあらゆる労苦を厭わずに、愛をもって福音伝道に励んでいるパウロの修道僧のような姿があります。

 ではどうしてパウロはこのような行為ができたのでしょうか。それは身分不相応な変身をしてくださったお方と出会ったからです。そのお方についてフィリピの信徒への手紙2章6-8節にはこのように書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」キリストは格好だけ人間になってみせたのではありません。終始、真の人間として生きられ、何の抗弁も弁明もせず、私たちのために黙って裁きを受けてくださったのです。パウロの行為は、キリストが人間の姿となられて真の人間として生きられ、人間が抱えている問題のすべてを引き受けられたことに呼応しているのです。

 福音を語っている者がその恵みから漏れるようであっては本末転倒です。パウロは自分が教えておきながら、共に福音に与れないようなことにならないようにと、具体的なイメージを通して信仰生活の真剣さを語ります。「(24-25節)あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」信仰生活には克己の精神が必要であるということを語っています。

 コリントはギリシアの都市です。ギリシアは皆さまも良くご存じのように、オリンピック発祥の地です。古くからスポーツ競技が盛んで、立派な競技場には全国から多くの人々が集まってその体力や業を競い合いました。コリントではイストミア大競技祭が一年おきに開かれていました。競技種目としては、ランニング、跳躍、円盤投げ、レスリング、拳闘等々いろいろあったようです。全国から集まってきた選手たちが業を競うのですが、栄冠を受けられる優勝者はただ一人でした。

 この競技大会に出場する選手たちは、出場に先立って猛訓練をしたそうです。出場する者は、厳格な監督のもとに、一定の期間、一定の食事、一定の生活法に従って指導を受けなければならなかったそうで、これらの訓練を受けるに際しては、規律を厳守する誓約をしなければなりませんでした。もちろん暴飲暴食を避けて節制し、身体を鍛錬することは今も昔も同じです。

 キリストを信じる私たちは、万人注視のもとに信仰生活のレースを走っている者です。しかし用心しないと途中で棄権したり、落後する者が出てきます。だから最後まで走り終えて、主の栄冠を受ける者となるためには、心して励まなければなりません。それは、オリンピックに出場する競技者が、勝利の栄冠を得るために訓練し、不断の努力が大切であるのと同じことです。当時は優勝者にはオリーブ等の新鮮な樹木の葉で編んだ冠が与えられたそうですが、それはしばらくするとしぼんで枯れてしまいました。しかしそのように朽ちてしまう冠を得るためにさえも、それだけ自制し、努力や訓練を重ねるのであるならば、朽ちない冠を得るために、それを目指している私たちキリスト者は、日々どれほど自分の信仰の鍛錬や修養のために精進しなければならないでしょうか。私たちはその熱心と努力において、彼らに劣ってはならないと思います。

「(26-27節)だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 パウロ自身は目標を目指して走っていると信じていました。「やみくもに走ったりしない」とはっきり語っています。パウロは目指すところがどこかしっかり確信していたのです。パウロはここで拳闘する姿をイメージして語っています。拳闘する時には、相手の急所をねらい、打つべきところに打たないといけません。しかしへまをすると、思い切り空を打って身体のバランスが崩れて倒れたり、無益な疲れを招いてしまいます。しかしパウロは正確に打つべきところを打っていると信じていました。信仰生活で打つべきところはどこでしょうか。それは他でもない自分の身体と心です。パンチで打つべきその敵こそは、誰か外にいる人ではなく私自身であると語っているのです。ですから彼は「自分の体を打ちたたいて服従させます。」と語るのです。何と厳しい自己抑制でしょうか。

 パウロがそう言うのは「(27節)他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」人に教えておきながら、あるいは口先だけ立派なことを言いながら、その人自身の生活がそれに伴わないようでは、多くの人をつまずかせてしまいます。何よりも主を裏切ることになるとパウロは思っていたのだと思います。
私たちの信仰はいつも生きた信仰でなくてはならないと思います。生きた信仰には生きた生活が伴うのです。そのためには不断の努力が必要です。私たちは絶えず生ける主イエスを仰ぎつつ、パウロが勧めるように、真剣な心で訓練に励む者とされたいと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)