天使のラッパが鳴る

2023年3月5日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 8章6~13節
牧師 常廣澄子

 最近、AI(人口知能)が論文を書いたり、人間の病気を診断したり、医学的な処方を教えてくれたりするということを知り、人間の技術開発はいったいどこまで進歩するのだろうと驚いています。しかしそのようなことは、目まぐるしく進化する人間世界の一端かもしれません。今私たちが生きている世界は、科学技術の目覚ましい発達によって、かつてないほど豊かになり、様々な便利なものに溢れ、季節を問わずいつでも快適に過ごせる時代になっています。しかし一方で、今までは考えられなかったような凶悪な犯罪が横行し、次々と複雑な事件や思いもしない事故が起こっています。ロシアとウクライナの戦争は長期戦となりつつあり、世界の国々は一触即発の緊張状況にあり、いつ破滅的な事件が起きてもおかしくないほどの危うさに満ちています。今の時代は本当に先の見通せない危険な状況にあるように思えます。皆さまは今の世界をどう見ているでしょうか。

 遠い国の戦争の様子がテレビやインターネットの画面を通して写し出され、まるでゲームでも見ているかのようですが、これらはすべて今生きている人間がやっていることです。殺戮が繰り返され、平和な日常が一変して、悲惨な状況に置かれている方々のことを思うといつも心が痛みます。一日も早く戦争が終わり、平和な世界になって欲しいと心から願います。便利になったとはいえ、私たちは心底心豊かで快適な時代に生きているのではないのです。今は希望溢れる時代ではありません。黙示録は、このような現代社会を、大きな神の御手の中にある世界として見ています。

 本日は前回に続いて、ヨハネの黙示録8章の御言葉から聞いてまいります。ここでは第七の封印が解かれ、それと同時に七人の天使にラッパが与えられたことが書かれていました(2節)。この七人の天使にラッパが与えられたことに注目したいと思います。このラッパはどういう意味あいを持っているものなのでしょう。ラッパというのはトランペットのような楽器であり、昔の角笛と思ってよいかもしれません。
ラッパは、古い時代から、王の即位とか戴冠式などの祝典の時、あるいはお祝いの行事の時に、高らかに吹き鳴らされました。また、戦いが始まる時には招集のラッパが、いよいよ戦闘に取り掛かる時にはその合図として進軍ラッパが吹かれました。さらには戦争が終わって、勝利を告げるファンファーレのようなラッパもあります。

 エゼキエル書33章1-9節には、民に警告を与えるラッパ(角笛)のことが書いてあります。民を
見守る見張り人は、災いが近づいてきたら角笛を吹き鳴らして民に警告しなければなりませんでした。もし角笛を吹かずに、災いが来てしまい、それによって命が奪われたなら、その見張り人の怠慢を責め、その責任は見張り人に求められるというのです。「血の責任をわたしは見張りの手に求める。」と書いてあります。ラッパは警報であり、危険を知らせる合図なのです。

 聖書の中でラッパを吹くことは、神との関係において用いられています。それは神の祝福を告げるものであったり、神ご自身が人々を招集される知らせであったり、神の警告であったり、あるいは神の臨在を表すものであったりしました。しかしそれにもう一つ付け加えなければならないものがあります。それは主の日を告げ知らせるラッパ、終わりの時に終末的な主の日の到来を告げるラッパです。
パウロは、コリントの信徒への手紙一15章51-52節で、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」と語り、最後のラッパは私たちが朽ちない者に変えられる喜びのラッパだと言っています。同時にこのラッパは、神に敵対する者、神の救いを拒み、受け入れない者に対する裁きを告げるラッパでもあります。それは審判としてのラッパであり、悔い改めを迫る警告としてのラッパなのです。

 さてここでは、ラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をしました(6節)。ここから七つのラッパが一つずつ吹き鳴らされていくのですが、本日は始めの四つのラッパについてみていきたいと思います。「(7節)第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。」
ここには、雹と火が激しく降り注いでくると同時に、それに血が混じっているという、文字通り血なまぐさい悲惨な光景が記されています。また地上の建物や木々や青草が焼けてしまうというのです。最近起きたトルコとシリアの大地震では、住み慣れた住居や土地が跡形もなく崩れ落ちて、土砂に埋もれてしまっている様子があります。あっという間に地上が変貌してしまいました。第一のラッパの幻は決して非現実的なものではありません。

「(8-9節)第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」これは海に起こる大災害です。火で燃えている大きな山のようなもの、大きな火だるまになったものが海になだれ込むという光景が描かれています。ここにも壊滅的な姿、恐るべき裁きの姿があります。海の三分の一が血に変わった、というのは多くの人が、死んだことを想像します。
第二次世界大戦の終わり、1945年8月には、広島長崎に原子爆弾が投下され 瞬時にして何十万人もの人々の命が奪われました。また数えきれない多くの人たちが苦しみ、傷つき、焼けただれ、そこには阿鼻叫喚の地獄が現れたのです。熱い熱いと多くの人が川に飛び込みました。また、アメリカでは、あの高い世界貿易センタービルが無残に破壊される光景がありました。人類の最先端の建物が火の塊になって落ちてくる場面を覚えておられると思います。

 「(10-11節)第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」松明のように燃えている星が天から落ちてくると書かれています。隕石の落下でしょうか、あるいは隕石の衝突でしょうか。それが水源に落ちて来たために、単に水が苦くなっただけではなく、毒性を持っていたようで、多くの人が死んだというのです。耳を澄まして聞かないといけないことです。今もあちこちの土地や水が汚染され、人や動物、植物、生き物すべての身体や心が蝕まれています。これは全人類、全被造物のうめきです。
 
 過去において、似たようなことがありました。ベトナム戦争の時の枯れ葉作戦です。空から枯葉剤がまかれたので、草木が枯れただけでなく、ダイオキシンという薬は土地にしみ込んだわけです。その汚染された水を飲んだり、そこで育った動植物を食べた人間や動物は、その身体が蝕まれ苦しみ、その時だけでなく幾世代にもわたってその後遺症に苦しんでいるのです。水俣や新潟の水銀汚染による病気も同じような苦しみです。これは天災ではなく人災です。
私たちは、大地震と津波、原発事故を体験しました。それは本当に恐ろしい出来事でした。放射能は地上の木や草をすべて汚染しました。海も汚染され、魚を捕って食べることもできませんでした。人間にはその汚染された土や水から放射能を取り除く手段をもっていないのです。除染といって土の表面を削り取って埋めるだけ、水で薄めてタンクに入れておくだけで、なくなったわけではありません。今、その廃棄物のことが大きな問題になっています。

 ところで、こういう出来事が起こると、これこそ黙示録が語っていることだと言う方がおられます。世界は終末に近づいたと言って、人々を恐れさせ、扇動したりする人も出てきます。しかし一つ一つの出来事を黙示録に当てはめて考えるのは大変危険です。11節にある「苦よもぎ」はロシア語でチェルノブイリと言うそうですが、それで、この個所で言われていることが、チェルノブイリ原子力発電所の事故になって起きたのだ、ととらえる人がいますが、黙示録に書かれていることは、特定の事件を預言しているのではありません。神の審きについての根本的なことが語られているのです。

「(12節)第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。」ここでは、太陽も月も星もその本来の輝きを失っていくといっています。

 第一から第四のラッパまでを見て来ましたが、災いは地上の災害から、海の災害へ、そして水源の災害へ、そして宇宙、太陽系の動揺へと広がっていきます。ここに書かれている災いの出来事を見ると、主なる神がモーセを通してエジプトのファラオに行った出来事にどこか似ています。エジプトの国は次々と恐ろしい災いに見舞われますが、いったんそれが過ぎ去るとファラオは心をかたくなにしてイスラエルの民を去らせませんでした。今の人間社会でも同じことが言えるのではないでしょうか。
ところで、ここには三分の一、三分の一というように、割合が共通していることに気づきます。全部ではないのです。少し前に、小羊が第四の封印を開いた時には青白い馬が現れ、それに乗っている者は「死」という名前でした。そして地上の四分の一の人を支配する権威が与えられたのでした(6章8節参照)。四分の一から三分の一へ、災いが大きくなっていることがわかります。しかしまだ残りの三分の二は災いを免れています。これらの警告は神の審きの警告として、悔い改めを迫るものですが、まだ最終的なものではないということです。

「(13節)また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。『不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。』」四人の天使がラッパを吹いて、四つの災いの幻が終わったあと、一羽の鷲が中空を飛び翔りながら大声で三度も「不幸だ、不幸だ、不幸だ」と言うのです。どんな鳥よりも強くて大きな鷲が天高く飛んで、そこからすべてを見下ろしながら大声で言う声は、どこにいても聞き取ることができるでしょう。鷲は残る三人の天使がラッパを吹き鳴らそうとしていることを念頭に置いて告げているのです。不幸だ(ウーアイ)という言葉は、これから起ころうとしている災いによって、人間が嘆くことしかできずにいる様子、ただ口からうめき声が漏れ出るだけの様子をあらわしているかのようです。

 私たちが信じる神は、歴史を通して働かれる神です。全世界と全宇宙と全歴史を統べ治められる方です。そして私たち一人一人の生活の中に生きて働いておられます。この方はこれからも私たちの生きている世界に関わり続けられます。黙示録はそのことを幻として示し、警告しているのです。このお方の警告を聞かないならば、全人類は誠に「不幸な者」となるのだと。人間をこよなく愛される神は、何とかして滅びから救われる道を与えようと、神ご自身が大きな代価を払ってくださったのです。すなわち、御子イエスキリストによって唯一救いの道を開いてくださいました。

 天使が吹くラッパは、「悔い改めて神のもとに立ち返りなさい」という警告であり、呼びかけです。そのラッパが吹き鳴らされているにもかかわらず、依然として心をかたくなにして、人間は神に背き続けているのです。人間の長い歴史は、神に背き続ける歴史であったことを思います。
しかし、この地上に災いが満ち、誰もが滅びを予感している今こそ、私たちは神に立ち返る時ではないでしょうか。人間の罪と、それゆえに起こされる神の審きとを、しっかり見据えなければなりません。私たちは滅びに向かう人間の歴史の只中に生きていますが、しっかりと贖い主キリストのお姿を見つめながら生きていきたいと思います。そして災いの先に約束されている新しい天と地の希望を持って生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)