互いに受け入れ合う

2023年3月12日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 9章46~50節
牧師 永田邦夫 

 本日は3月第二週の主日礼拝です。また昨日の3月11日は、12年前に起きた東日本大震災を記念する日でした。また世界では、約一か月前に発生したシリア、トルコでの大地震があります。このように、突然起こるかもしれない大きな地震や自然災害に対して、わたしたちは普段からの心備えが大切であることを、また改めて考えさせられているときでもありました。

 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。なお、本日の説教箇所は、予め9章46節から50節までの二つの段落から、としておりましたが、もっと大きく捉えて、主イエスさまが、最初にご自身の十字架と復活を予告され、その直後の“山上の変貌”の出来事、さらには、それに続く一連の出来事もすべて関係していますので、これらの箇所全体を含めてのメッセージといたします。

 なお、主イエスさまの公生涯での福音伝道は、ガリラヤを中心とした伝道と、エルサレムでの伝道(その途上における伝道も含めて)の二つに分けることが出来ますが、本日箇所は、その前半であるガリラヤ伝道の、いわば頂点を占める幾つかの連続した出来事なのです。そしてさらに、ここからは、主イエスさまの御心が非常に緊張状態にあったことも、これらの箇所から読み取ることが出来ます。

 では早速、以上のことを具体的に見て参りましょう。主イエスさまが、ご自身の十字架と復活を最初に予告された、その内容の要点についてです。最初の十字架予告は、ペトロがイエスさまから、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」の問いに対して、「神からのメシアです。」(9章20節)と答えました。このことは皆さまもよく記憶されていると思います。
そしてそのペトロの返事を追いかけるように、イエスさまは「弟子たちを戒めて、このことはだれにも話さないように」と命じたうえで言われました。「人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とです。自分は決して王的メシアではなく、いわば“苦難の僕”として世に来たことを告げているのです。それはまた、ご自分がその苦難の道を通って、世の人々の救いを完成させる、ということであり、御父なる神が備えた道でもあることも、そのお言葉を通して理解できます。

 そしてさらに大事なことがその後に続いています。それは弟子たちに対しての命令の言葉です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9章23節)とある通りです。なお、この弟子たちは、大事な福音伝道の役割をイエスさまから託され、それを背負っていくためにイエスさまから選ばれている弟子たちなのです。

 以上を受けて、“山上の変貌”の箇所(9章28節から)に入ります。先ず、出来事の概要を紹介します。直前の“十字架と復活の予告”から八日ほど経ったとき(すなわち、状況が落ち着いてから)、主イエスは、弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登り、徹夜の祈りをしていたときのことです。祈っている内に、イエスさまの顔の様子も服装も輝いて見えた。そこにはモーセ、エリヤが登場しており、イエスさまはご自身がエルサレムで成し遂げようとしている最期について話していた、と記されています。

 先ず、イエスさまが話をしておられた、“エルサレムで遂げようとしている最期について”と、そこに登場していた、モーセとエリヤの役割についてです。主イエスさまは他の福音書(マタイによる福音書5章17節)で、ご自身が世に来た使命について「わたしが(世に)来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成させるためである」と伝えていました。そして今ここに登場しているのも、モーセとエリヤでした。それは他でもなく、律法と預言者のいわば代表的な人たちです。このことを考えると、このとき、主イエスさまがモーセとエリヤと共にそこで話をしていたことの意味がはっきりしてきます。
 いまここで、“エルサレムで成し遂げようとしている最期について”と簡単に紹介しましたが、これはイエスさまにとっては、最初の十字架予告にもありましたが、正に“血の滲むような苦難の出来事”なのです。イエスさまがモーセ、エリヤとそのことを話している時に見られた、変貌の様子は、弟子たちが、近くでも見ていたような、“栄光の姿”では決してなかったのです。まずこのことが、この“イエスさまの変貌”の箇所で伝えている大きなポイントです。すなわち、弟子たちは、主イエスさまのことを少しも理解していなかった、主イエスさまと弟子たちとの、乖離(かいり)の様子をここに見ます。そしてさらに、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」と結んでいます。

 次は、“イエスの変貌”の出来事の翌日に、一同が下山してきたとき起こった、“悪霊追放”の出来事(9章37節以降)からです。先ずはこの出来事の概要を見ておきましょう。
下山してきた一同を大勢の群衆が迎えましたが、その中の一人の男性が突然に大声で主イエスさまに頼みごとをしてきました。それは、自分の一人息子が時々、悪霊に取りつかれて苦しんでいるので、何とかその悪霊を追い出してもらいたい、との依頼でした。そしてそのとき同時にイエスさまに告げたことは、イエスさまが来られる前に、この悪霊追放を弟子たちに頼んだが、それが出来なかった、と訴えたことです。
すると、そこから事は大きく進展。そのときのイエスさまのお言葉が41節です「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」の、イエスさまの激怒であり、また嘆き、ともとれるお言葉でした。

 この時のイエスさまは、誰に向かって、このような怒りであり、嘆きの言葉をぶっつけていたのでしょうか。それは共観福音書の並行記事等からも分かる通り、先ず弟子たち、そして悪霊追放を頼んできた父親、さらには、同席していた律法学者、等々です。“悪霊追放”にポイントを絞りますと、主イエスさまは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない。」(マルコによる福音書9章29節)、また、マタイによる福音書(17章20節)でも、弟子たちに対して「その信仰の薄さ」を指摘しています。

 これに続いて、主イエスさまは、連れて来られた一人息子の悪霊を追い出し、その父親に返された、とあり、ほっとさせられました。ではこの段落の要点を、主イエスさまと、弟子たちに絞って確認しておきましょう。

 主イエスさまは、ここでもエルサレムでのことを視野に入れながら、とくに弟子たちの信仰の足りなさを指摘し、それが、怒りや、苛立ちとなって表れたと、理解することが出来ます。このことをわたしたちは、“それは弟子たちのこと”として、聞き流すことは許されません。

 では次の段落に入ります。ここは、同じく43節の後半の言葉として「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。」とあり、44節では「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」と、やや厳しい口調で始まっています。ここには、主イエスさまの二回目の十字架予告のことが、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」と端的に記されています。そして、このイエスさまのお言葉を、素直に、直ちに聞き入れなければならない弟子たちであったのに、この期に及んでも弟子たちには、その様子は見られません。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。」と45節にあります。よく解釈しますと、これも神のご計画の内にあったのかな、と理解することが出来ます。

 上を受けまして、46節から50節までへと入ります。46節には、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」とあり、さらに47節aには「イエスは彼らの心の内を見抜き、」とあります。続いて、47節b、「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、」とあり48節へと進んでいます。その時の主イエスさまのお言葉を整理して見て参ります。

 先ず初めの言葉、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」についてです。“わたしの名のために”とは、聖書では、イエスさまご自身について言われることが多いですが、イエスさまの全性質、人格、そして、その全存在、という意味で使われています。また社会一般では、「だれだれの名代として」という意味で使われます。次は、今イエスさまが傍に立たせている、子供について考えて見ましょう。一般に、子どもは“純真で素直であり、人の話もすぐに聞き入れるもの”という解釈もありますが、もう一方では、子どもは、“ごく小さな、取るに足らないもの”との解釈も当時はありました。

 主イエスさまは48節で、この小さな一人の子供を受け入れることは、とりもなおさず、このわたしを受け入れることだ」と告げているのです。これに続く二番目は「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方(父なる神)を受け入れるのである。」と言われた言葉です。このお言葉はわたしたちもすぐ理解できます。そして。最後の言葉、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」この言葉は、ここでイエスさまが弟子たちに最も伝えたかった言葉です。そしてこの言葉は、弟子たちにとって、心の内に、ずしっと突き刺さる言葉だったことでしょう。また、そうあって欲しいと願う者です。次の49節、50節は省略することにします。

 さて、今までの箇所は、主イエスさまがご自身の十字架と復活を予告されたあと、ご自身がエルサレムでの苦難を通して、父なる神のご計画に沿って、その救いのみわざを達成することを目指している中で起こった、諸々の出来事でした。然しながら、このことをよく理解することが出来ない弟子たちも傍らにいたことも事実です。主なるイエスさまは、そのことも、じっと、受け入れて弟子たちを待ち続けておられたのです。これは今日の私たちに対する愛でもあります。この御愛に感謝しながら、わたしたちはこれからも力強く歩んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)