十字架に向かって

2023年4月2日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ルカによる福音書 9章51~62節
牧師 永田邦夫 

 本日は2023年度に入りまして最初の主日礼拝です。そして、イースター前の受難節、わたしたちは、主イエスさまの十字架の受難のことに思いを馳せながら、この時を過ごしております。

 本日も、ルカによる福音書から、福音のメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。本日の説教は、主イエスさまが、受難の場所であるエルサレムに向かって旅立ちをされた、そのことを中心としたメッセージです。主イエスさまは最初に、ご自身の死と復活を予告されたとき、弟子たちに向かって「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカによる福音書9章22節)と、父なる神から託されているご自分の使命を自覚し、これを率直に弟子たちに告げて来られました。

 ここで、主イエスさまの地上でのご生涯の伝道の歩みについて、その全体を確認しておきます。それは、ご自分が育った場所である、ガリラヤを中心とした伝道、二番目は、ご自身に示されている、受難の場所であるエルサレムに向かっての、その途上での伝道、そして最後はエルサレムでの出来事すべて、以上の三つに分けることが出来ます。
そして本日箇所は、その中間、エルサレムに向かっての旅立ちの時についてです。ルカによる福音書では、9章51節から19章44節まで約10章にわたり、エルサレムへの途上での出来事と教え、で占めております。その中には、サマリア人に関しての記事もいくつかありまして、本日箇所はその一つです。

 では早速、51節に入っていきます。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と、その決意の様子が淡々と記されています。参考までに、この節は原文(ギリシア語)で、「イエスが天に取り上げられる日々が満ちたとき、自らその顔をエルサレムに向けて、決然と進もうとした。」と記されているのです。ここでは、“○○の日々が満ちて”、あるいは、“自分の顔を〇〇に向けて”と、独特の表現で、その様子を伝えています。

 主イエスさまのエルサレムに向かっての旅には、弟子の十二人に加え、他の人々もいたかもしれません。主イエスは、行く先々で、宿泊や食事などの準備をさせるために、弟子たちの中から使いの者を出されたのです。次の52節に「そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。」とあり、一行が、サマリア人の村に入ろうとしていたことが分かります。ところがどうでしょうか、53節には「しかし、村人はイスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」とあります。“ああ、ここでもそうなのか”との思いにさせられます。

 では先に、当時のユダヤ人とサマリア人との関係、その確執の歴史を見ておきましょう。北イスラエルは紀元前722年に、アッシリアによって滅ぼされて、重立った人々は捕囚民として連行されましたが、残された人々は、アッシリアそのほかから移住してきた人々との混合の生活が始まりました。異教徒との結婚もあり、そこでは、バアル礼拝が盛んとなりました(列王記上16章32節、18章19節など)。そして、ゲリジム山に彼ら独自の神殿を立て、モーセ五書を改変して礼拝を捧げるなど、偶像礼拝が盛んになりました。その後、時代が進み、南ユダがバビロン捕囚から帰還して、神殿建設に取り組もうとしたとき、サマリア人がその支援を申し込んできたのに、ユダヤ人はそれを断る、ということも起こりました(エズラ記4章)。北イスラエルとユダ両国の対立が、ずっと続いていたことを表しています。

 聖書の本日箇所に戻ります。主イエスさまの、エルサレム途上の記事は本日箇所以降、約10章にわたって記されていることは先ほどお伝えした通りですが、この中にあって、イエスさまが力を込めてお伝えしようとしている、サマリア人に関する記事は、何れも、サマリア人の信仰的な素晴らしさを取り上げながら、ユダヤ人もサマリア人もお互いに主の民として、元の良い関係を取り戻さなければならない、そのようなイエスさまの強い思いが、それらの箇所から伝わってきます。

 ではここで、主イエスさまが、サマリア人のわざや信仰を称えている記事を、本書から見ておきましょう。一つは、皆さまもよくご存じの「善いサマリア人」のたとえ(ルカによる福音書10章25節~37節)です。この話は、律法学者からイエスさまへの質問「わたしの隣人とはだれですか」に対して、イエスさまが伝えた「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で追いはぎに襲われ、瀕死の重傷を負った。そしてそこを、祭司やレビ人が次々に通りかかったが、彼らは見て見ぬふりをして道の向こう側を通り過ぎて行った。しかしその後、通りかかったサマリア人はそばに來ると、その人を憐れに思い近寄り、種々と介抱してあげ、回復させることが出来た。」、という話です。
そして主イエスさまは、律法学者に向かって「この三人の中で、怪我人の隣人となったのはだれか」と問うた、という出来事です。もちろん律法学者は、その答えを分かっていたことでしょう。

 長くなりましたが、もう一つのサマリア人に関する記事を見ておきましょう。「重い皮膚病を患っている十人の人のいやし」(ルカによる福音書17章11節~19節)から、「ある村に入ったとき、重い皮膚病を患っている十人の人が、主イエスさまを遠くから出迎え、『わたしたちを憐れんでください』と懇願してきた。イエスさまは『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』(律法の規定による)と指示し、彼らがその通りにしたところ、体はいやされた。しかし、その十人のうちイエスさまの所に戻ってきて感謝を述べたのはたった一人、サマリア人だけだった。」との出来事です。
以上、二つの出来事はいずれも、サマリア人の情け深さと信仰心を指摘し、それを賞賛している出来事です。そのことは、今日のわたしたちにとりましても、大きな感動を与える箇所です。

 聖書の本日箇所に戻りまして、弟子たちが、“イエスさまの指示を受け、サマリア人の村に入って、迎え入れの準備を頼んだが、彼らはそれを断われた”そのことに対して、弟子のヤコブ、ヨハネはイエスさまに提言しました。54節から「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とです。何とひどいことを言う弟子たちか、と思います。彼ら二人は気性が激しく“ボアネルゲ”すなわち、“雷の子”と呼ばれていた二人でもあります。

 なお、この時ヤコブ、ヨハネの二人がイエスさまに進言した言葉は、列王記下1章9節~11節からの引用でもありますが、その故事を確認しますと、紀元前9世紀、預言者エリヤの時代に、北イスラエルのアハブ王が、バアル礼拝に走っていて、アハブは部下を預言者エリヤ(彼はヤハウェに忠実な信仰者であった)の所に遣わし、彼を召喚しようとした、そのときのことです。その使いの者に向かってエリヤは、「わたしが神の人であったなら、天から火が降ってきて、あなたたちを焼き尽くすだろう」と告げたのです。エリヤはこの時、わたしがあなたたちの招きに応じることは、とんでもないことだ、と言いたかったのです。その後、果たしてエリヤが告げた通りのことが実際に起こった、という故事です。ルカによる福音書の本日箇所で、ヤコブとヨハネの脳裏には、この出来事があって、主イエスさまに、先の提言をしたのでしょう。

 この時のイエスさまの対応が次の55節に「イエスは振り向いて二人を戒められた。」とあります。この時のイエスさまは、さぞ厳しいお顔で二人を叱ったことでしょう。主イエスさまは、ユダヤ人とサマリア人の不仲に対して、ずっと頭を痛めて来られました。両者共に主の民として、なんとか元の関係を早く取り戻したい、その願いをずっと持ち続けた来られたのです。

 次の56節には「そして、一行は別の村に行った。」とだけ記されています。主イエスは、暖かい眼差しで振り返りながら、サマリアの村を後にされたことと思います。次の段落に入ります。段落の見出しは「弟子の覚悟」とありまして、いずれも、「主イエスさまに従って行きたい」との意思表示はするものの、その姿勢、決断の仕方にそれぞれの違いがあります。

 この箇所は、登場してくる人々を三つにグループ分けしており、最初のグループの人は、57節bにありますように「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」とイエスさまに告げている、いわば、楽観的なタイプの人たちです。彼らに対してイエスさまは、ご自身の境涯(きょうがい)を、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と率直に伝えて「自分に従ってくる、その覚悟はできているのか」との念押しです。

 次のグループの人は、「わたしに従いなさい」とのイエスさまのお誘いに対し、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」と、応えたとのことです。これは、家族優先タイプの人たちです。主イエスさまは彼らに「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい。」と言われました。要は、死者のことは残った家族に任せなさい。ということです。

 そして最後、三番目のグループの人は、主イエスさまに「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言った、と記されています。この人たちは、いわば優柔不断な態度を示す、人たちです。主イエスさまは、その人に向かって「鋤(すき)に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、厳しいお言葉をお告げになりました。

 以上、「イエスさまに従って行きます」とは言うものの、その決断に至るまでには、人それぞれに、戸惑いや、躊躇の思いが出てくることがあります。またそれほどに、わたしたち一人一人は弱い存在であることを表しています。主なる神、そして主イエスさまは、わたしたち夫々に対して、それぞれの方法で力づけてくださり、また、決断へと導いてくださいます。そのことに感謝と勇気をもって、その導きに従って参りましょう。
使徒パウロは言いました「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、――目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙3章13節~14節参照)とです。


(牧師 永田邦夫)