主はよみがえられた

2023年4月9日(主日)
主日礼拝『 イースター礼拝・誕生日祝福 』

ルカによる福音書 24章1~12節
牧師 常廣澄子 

 イースターおめでとうございます。
本日は、イエス・キリストの復活を喜び感謝し、そのことをお祝いするイースター礼拝です。

 このキリストの復活という出来事は、キリスト教信仰の最も中心にあるものです。毎週日曜日に行われる主の日の礼拝は、このイエスの復活を記念する礼拝であることは言うまでもありません。今では「復活」という言葉をいろいろなところで自然に使っていますが、「復活」つまり「死人のよみがえり」ということは、受け取りようによっては、不気味なことです。しかし、キリスト者ははっきりそのことを信じるという信仰告白をいたします。なぜならイエスの復活という出来事こそが人間の罪の贖い、つまり救いの完成だからです。けれどもこの復活ほど、私たち現代人にとって理解し難くて分かりにくいものはないのです。実を言えば、イエスの弟子たちでさえも、当初はイエスの復活を信じることができませんでした。

 今朝お読みしたところには、十字架から三日目の朝早く、婦人たちが準備しておいた香料を持ってイエスが葬られたお墓に行った時の様子が書かれています。余裕があれば、人を埋葬する時にするべきことは既にやってあったのでしょうが、十字架で殺されたイエスの場合は大急ぎで埋葬しなければならなかったので、し残したことがたくさんあったのです。女性たちは一刻も早く、非業の死を遂げたイエスの御遺体に対してふさわしいお取り扱いをしてさしあげたい、イエスのお身体を香料で清めて、その豊かな香りを添えてあげたいと願っていたのです。ずっと一緒に行動してきたイエスに対する深い愛です。伝道の旅で汗とほこりに汚れた衣を洗ってあげたり、食事を用意して召し上がられた時の喜びの表情を思い出していたかもしれません。婦人たちがイエスのお身体を思う気持ちは特別のものでした。私たち日本人が今やっているように火葬にしたのではありません。死なれたイエスのお身体は、墓に葬られたという確かな事実としてそこにありました。

「(1-8節)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」

 女性たちが墓に到着したところ、入り口をふさいでいた石がわきに転がしてありました。それで中に入ってみると、イエスのお身体がなかったのです。イエスの遺体がないのですから、彼女たちは墓に来た目的が果たせません。彼女たちは驚きと同時に途方に暮れてしまいました。呆然自失といった状態でしょうか。するとそこに「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」のです。そしてイエスが生前に語られたことを告げたというのです。

 女性たちはここでやっとイエスの言葉を思い出しました。ルカによる福音書9章22節にはこのように書かれています。「(イエスは)次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」女性たちは、ああそうだったのか、あの時イエスが言われたことはこのことだったのかと、やっと思い当たったのです。彼女たちはイエスの語られたことが本当であったと納得したのです。

 復活について書かれているのは四つの福音書ですが、それらに共通して語られているのは、イエスが甦られたという事実を知った最初の人は皆女性であったということです。彼女たちは死んでしまわれたイエスのお身体を思って墓を訪ねたからこそ、そのお身体がないことがわかったのです。そのように、復活の記事はいずれも女性たちの愛による行為とその報告から始まっています。この女性たちが復活を語ったのです。そしてこのことが奇しくも後世の人たちには、復活という出来事が信用できるものであるとされた根拠にもなっているのです。

 それはどういうことかと言いますと、お墓に行ったこれらの女性たちが皆、嘘などつきそうもない良い人であったという意味ではありません。むしろ逆なのです。イエスの復活を実際は起こってもいないのに本当に起こったように見せようと誰かが企んだとしたら、決してその発見者や、それを語る人を女性にはしないということです。なぜなら、当時の社会、特にユダヤ社会では、女性や子どもは人間としての数にも入らない扱いでした。ほとんどその人格が認められていなかったのです。女性はモーセの掟や律法の真理を伝えるには値しない者だという考えがありました。神の言葉を女たちに渡すくらいなら、そうする前に掟を書いた巻物を破り捨てたほうがましだ、という律法学者の言葉が残っているくらいです。今以上に女性差別があったのです。ですから、女性たちを復活の目撃者だと主張することは、最初から不利なことでした。つまり、ほんとうに信じてもらいたいという目的で話を書くのなら、女性の証言者を用いることなどは絶対にしないということです。ですから、逆に信用できるというわけなのです。

 ここに出て来る婦人たちというのは、10節に書かれていますように、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでした。彼女たちはすぐに帰って、お墓が空であったことの一部始終を、十一人の使徒たちと他の人たち皆に知らせたのです。ところがどうでしょう。11節には「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とあります。女性たちの話をたわ言のように思って信じなかったというのです。「たわ言」というのは、ふざけた話とかばかげた話、あるいは虚言、空っぽで中身のない話を意味します。使徒たちには女性たちの言っていることが愚かなことだと思ったのです。ただペトロだけは立ち上がって墓に走って行って中を見ました。すると確かにそこにイエスのお身体はありませんでした(12節)。彼は不思議に思い驚いたのですが、残念ながらそれを見て復活を信じたとは書いてありません。

 復活を信じるということはまず、それを語っている女性たちの言葉を信じることでした。この時使徒たちは女が話すことだから信用するに足りないと思ったのかどうかはわかりませんが、ここでの使徒たちはイエスが語られたことを忘れていただけではなく、女性たちがいうことを愚かな話だと受け止めたのです。イエスとずっと一緒に行動してきた弟子たちは、イエスが生前、ご自分の苦しみと死と復活について語られたのを聞いていたはずですがすっかり忘れています。イエスがどのような思いで語っておられたのか、そのお気持ちを思うどころか、何といい加減に聞き逃していることでしょうか。人間は自分に都合の良いように人の話を聞いているということがよくわかります。

「復活」は「仮死状態から生き返ったこと」ではありません。イエスは実際に十字架に架けられて殺されたのです。命を落とされました。確かに人間としての最期を迎えて死んだのです。イエスは大声で叫ばれ「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られました。百人隊長はこの出来事を見て「本当にこの人は正しい人だった。」と言いました(ルカによる福音書23章46-47節参照)。実際イエスの死は、正しい人の死であっただけではありません。神の御子の殺害でした。その時太陽は光を失い全地は暗くなりました。その時、宇宙的大事件が起こったのです。

 そしてその十字架の出来事は金曜日で準備の日でした。ユダヤ教の安息日は土曜日でしたから、日没になると安息日が始まってしまいます。イエスのお身体はすぐに十字架から下ろされて、サンヘドリンの議員であったアリマタヤのヨセフが準備した新しい墓に葬られました。女性たちは確かにそのことを見届けたのです。お読みした個所の少し前の23章55~56節には、はっきりと「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」と書いてあります。

 ところで新共同訳聖書では、今朝お読みした24章の初めにくっつけて、前章23章56節の後半部分「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」と書かれています。エルサレム入場から始まったこの激動の一週間を考えますと、イエスの周囲にいた人々は皆疲れ果てていたと思います。さらにはイエスの十字架刑という出来事によって辛さと悲しみに打ちひしがれていたはずです。それで安息日には女性たちは休んだのです。安息日に何かすることは禁じられていたからですが、それともう一つ女性たちがゆっくり休めた理由は、既にイエスは死んでおしまいになっていたからです。イエスはもうどこにも行くことはありません。イエスのお身体は葬られた墓の中にあることが分かっていましたから、女性たちは安心して休むことができたのです。

 ところが、朝早く、急いで行ったお墓にそのお身体がなかったのです。聖書が伝えているのは、イエスがその肉体をもって甦られたということです。女性たちが驚き恐れていると、そこに現れた「輝く衣を着た二人の人」(おそらく天使のような存在だったのでしょう。)は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」言いなおすと、「今生きている者を、なぜ、既に死んでしまった者の中に探すのか」ということです。この後で、エマオに向かう弟子たちに復活のイエスが伴われた話が続きますが、そこでは「(23節)天使たちが現れ『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」という言葉が語られています。死んでしまったはずのイエスが今生きておられるというのです。天使が女性たちに語ったこの問いかけ「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」は私たちの信仰の本質に関わることです。イエスを「今も生きておられる方」と信じることがキリスト教信仰の中心だからです。

 天使たちは続けてイエスについて明らかにしていきます。「(6節)あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」つまり復活されたイエスは、場所や時間、空間に限定されないものに変わっているのだと言います。復活されたイエスは、時間と空間を超えているのです。

 イエスの復活は人間が信じるべき出来事です。人格もなく蔑まれていた当時の女性たちが語ったことであろうが、女の言うことなど信じられない、そんなことは男の恥だと思おうが、そういう人間的な思いの一切を乗り越えなければ復活を信じる信仰は持てません。イエスの復活はまず人間としての数にも入らない女性たちに伝えられたのです。ここに神の恵みの深さと神の愛の豊かさがあります。

 天使の言葉を聞いて、女性たちは墓を後にしました。イエスの死による絶望と悲しみから方向転換したのです。死人の中にイエスを探していた彼女たちは、今やイエスを「生きておられる方」として報告するために戻っていきました。イエスはよみがえられたという喜びの出来事の一部始終を語ったのです。福音宣教とはキリストの出来事を報告することです。

 この女性たちの中にマグダラのマリアという女性がいます。イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性です(8章2節)。悪霊というのは、人間を抑圧し分裂させ、孤立と絶望に追いやり、人間を破壊する力です。彼女の人生は悪霊によって破壊され、個人的にも社会的にも全く葬られていたにちがいありません。つまり死んでいるような状態でした。しかし、イエスは彼女をその支配から解放されました。人間性を取り戻したのです。救いとはこのように死んでいた命が回復され、縛られていた心が解放されることです。

 イースターの朝、復活のイエスは、私たちを死から命へと呼びかけておられます。いつか訪れるであろう自分の死を迎える前に、私たちは死に対する態度をきちんと持っているかどうかが問われます。これは自分で死と戦うということではありません。復活のイエスによって明らかにされたように、イエスが死に勝利してくださったという信仰に立って生きることなのです。すべての人はいつか必ず地上の生を終える時が来ます。その時、命の源である神のところに帰る道筋として、信頼できる水先案内人としてのイエスを仰ぎ見ることができたら、どんなに幸いなことでしょうか。

(牧師 常廣澄子)