新しい命に生きる

2023年4月30日(主日)
主日礼拝『 証 』

ローマの信徒への手紙 6章1~14節
牧師 常廣澄子

 ローマの信徒への手紙を書いて来たパウロは、ここまで人間の罪と神の義ということについていろいろと語ってきました。つまり、人間が神の前で義とされるのは、律法を行うことによってではなく、キリスト・イエスの贖いの御業を信じることによるのである、ということを繰り返し語っているのです。そして5章の終わりでは、「(20節)律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」というように、人間の罪が重ければ重いほど、神の恵みもまたいっそう強く働くのだと、いわば逆説的ともとれるような発言をしています。

 しかしそうなりますと、「神に救われるためには、別に良いことをする必要なんかないではないか、むしろ悪い事であろうがどんなことであろうが、好きな事をして、その結果、罪が増して、神の恵みの対象になる方がましだ」という考えに陥ってしまう危険性があります。実際のところ、キリスト教の歴史では、本来の救いをはき違えたそのような教えが現れて、人々を惑わしたことが残っているそうです。そこで、パウロはそのような危険性をあらかじめ想定していたのかもしれませんが、6章の始めに警告を発しているのです。「(1-2節)では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」

 罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれるということは、実際そうかもしれませんが、そうだからといって、恵みを増すために罪を犯し続けるということはあってはならないことです。私たちは、キリストの十字架の贖いを信じることによって、罪が赦されますが、それは古い罪の生活から離れて、新しい義の生活に入ることを意味します。信じた者が受けるバプテスマがそれを象徴しています。バプテスマを受けるということは、全身を水に浸めて引き上げることからもわかりますように、私たちが罪の生活に死んで、義の生活に生き始めるという証しです。ですから、すでに罪に死んでしまった者が、バプテスマの後も同じように罪の生活を続けるということはあり得ません。信仰によって義とされた者は、自ら進んで神の御心に適うような生活をするように導かれていくのです。それが信じる者の歩む道であり、聖化への道です。

 3節から11節までパウロは実に見事に、罪の赦しとそれに伴って新しい命に生きることについて語っています。「(3-11節)それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」ここでパウロは、洗礼(バプテスマ)をキリスト・イエスに結ばれることであると語っていますように、私たちはキリストと共に死んで、キリストが死者の中から復活させられたように、新しい命に生かされたのです。

 神の贖いを信じるまでは、自分自身の力で正しく生きよう、清く生きようと、努力したかもしれません。しかし人間はなかなか思うように自分を制御できないのです。自分のことでありながら自分が思うように行動できない時があります。そういう自分に気づいて「なんと駄目な人間なんだろう」と自分に絶望する時もあります。しかし、私たちが神を信じた時、神の力が私たちの歩みを促し、支えてくださり、正しい道に導かれていくのです。

 つまり罪の赦しというのは、現状のままの私たちが赦されるという赦しであり、私たちが神を信じた時、そのあるがままの状態で私たちは救われるのです。けれども、その救いの中には神の力が秘められていて、あるがままの私たちを日々つくり変え、新しい命を持つ人間にしていくのです。

 私たちは神の御心に従いたいと願い、聖書の御言葉を読んだり、神に祈ったりします。神に喜ばれるような生活へと導かれるには、常にキリストを仰いで御霊の導きを受けることが大切だからです。そしてそれと同時に、神に自分を献げて生きるということを学ぶことが大切です。パウロはここで何度も自分を「献げる」ということについて力説しています。これこそが神の前に聖く生きていくための秘訣だと思います。「(12-13節)従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 神を信じる前の私たちは、自分の身体は自分のもの、自分が稼いだお金も時間も全部自分のものであって、すべてそれらを自分のために使い、費やしていました。自分のために使うということは結局、それらは名誉や快楽のために用いられます。自分の子どもでさえも、自分のものだからどうしようと勝手でしょう、とやかく言わないでほしいという論理になるのです。これは自分を罪に献げ、不義の道具にしていることです。

 一方、神を信じて、神を自分の主人として仕える生き方は、自分の身体を神に献げます。自分の命を自分以上の者である神に献げて生きるのです。これは一見不自由に見えるかもしれませんが、最も合理的で自由な生き方なのです。被造物である人間は、創造者である神に自分を献げて生きる者にならないならば、本当の満足を見出すことができないのです。そこにこそ人間が経験できる最も深い平安と祝福があるからです。アウグスティヌスは言いました。「神よ、あなたはわたしたちをあなたのためにお造りになりましたので、あなたのうちに憩うまでは私たちの心は安んじ得ないのです。」

 このように、神を信じる前、人間は自己中心という罪に支配されて生きて来ました。ところが神を信じる者は罪に支配されることがないと言います。それは今や、信じる者は律法の下ではなく恵みの下にいるからだと。「(14節)なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

 恵みというのは大変に深い言葉であって、簡単に語ることはできませんが、罪の赦しという救いを含む神の愛のすべてです。福音の恵みともいえると思います。この恵みには力があります。罪の支配を拒み、聖い生活を始めるための原動力は、律法には存在しませんが、罪の赦しという恵みの中にあるのです。恵みとか赦しという言葉だけを聞いていると、何か弱々しい感じがしますが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一1章18節)という御言葉にもあるように、福音の恵みの中に込められている力は大変力強いのです。ですから必ず人間を変革していきます。私たちはそういう力を発揮する恵みの下にあることを忘れずに、新しい週も日々新しい命に生かされていることを覚えて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)