火と煙と硫黄

2023年5月7日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 9章12~21節
牧師 常廣澄子

 このヨハネの黙示録に書かれている幻は理解できないことばかりで、非現実的な事柄としか思えないと言われる方がおられます。確かにここに書かれていることは不思議なことばかりです。しかしここに示されている幻から発するイメージは、現実に今世界で起きている状況を連想するほどに生々しく迫ってきます。今日の世界は非常に危機的な状況にあり、不安や恐怖に満ちていることを考えても、ヨハネが霊の導きによって見たこれらの幻をしっかり霊の目で見ようとすること、静まって霊の耳を傾けてみ言葉から聞くことは、今を生きる私たちにとって大変大事なことではないでしょうか。

 まず、12節には「第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。」とあり、この後に第二、第三の災いがあることが警告されています。また、8章には七人の天使に七つのラッパが与えられたことが書かれていましたが、今までに五つのラッパが吹き鳴らされました。その一つ一つのラッパが吹き鳴らされる度にいろいろな幻が現れました。今回は第六の天使がラッパを吹いた場面です。

「(13-15節)第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。『大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。』 四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。」

 この幻はどういうことなのでしょう。響き渡るラッパの音と共に聞こえるのは一つの声です。何とその声は金の祭壇から、つまり神の御座から出ています。それは「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」という命令です。命令というよりも許可です。つながれていた四人の天使が釈放されて、人間の三分の一を殺すという大変恐ろしい役割を与えられています。しかも、彼らはその年、その月、その日、その時間のために準備されていたというのです。つまり、その「時」を神が決めておられたということです。

 解き放たれた四人の天使、この危険な役割を担う者たちがつながれていたのは、「大きな川、ユーフラテスのほとり」とありますが、これは古代から栄えた文明の地、チグリス・ユーフラテス川の流域にある国のことです。この川のあるところは、かつてのアッシリアであり、バビロンでした。またローマ時代には、強力な騎兵部隊を持ってローマ軍にも勝利したパルテア人の国がありました。そういう背景があるところですが、今の時代においても、この地域は政治的な対立があるきわどいところです。

 四人の天使は、人間社会に対して破壊的役割を担っています。驚くのは、彼らが自分勝手にそうするのではなく、命令と許可を得ているということです。そのような恐ろしい命令を出す者は悪魔の頭、ベルゼブルでしょうか。違うのです。ここでさらに驚くのは、その命令を下したのは悪魔の頭などではありません、その声は神の御座から出ているのです。サタンもまた神の赦しなしには行動できないということです。全地に悪がはびこり、人間社会に悪徳が渦巻くこの世界の出来事もまた神の許可の中にあるということなのでしょう。

 今世界は、人間の不信仰の結果、審きの中にあるのです。人間は皆、自分たちで自分たち自身の墓穴を掘っているような状態です。人間社会の破壊という無残でおぞましい墓穴を掘っています。神はそのような私たち人間をなすがままにさせておられます。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマの信徒への手紙1章28節)しかし今までにも語ってきましたが、神は、そういう私たち人間に対して常に悔い改めを迫っておられることを忘れてはならないと思います。

 次にその騎兵の数ですが、二億とあります(16節)。その数量の膨大さは、数えることができないほどの圧倒的な数です。「(17-19節)わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。」人間の三分の一を殺すための軍隊の中でも、力の象徴である馬に乗っている者たちは「炎と紫と硫黄の色の胸当て」を着け、「口から火と煙と硫黄とが出ていた」とあります。また、馬の頭は獰猛な獅子の頭のようで、その尾は蛇のようで、それには頭がついているというのです。実に恐ろしい姿です。今日の戦争では、武器による殺戮だけでなく、人間の口から出される言葉の対立も険しくなっています。言葉でも行動でも災いが吐き出されているのです。今は、自然の災害だけでなく人的な災害が世界を覆っています。

 ところで、この100年近くの間に、世界の戦争形態は著しく変わってきました。たった一発の爆弾で何万人何十万人という人たちが殺されてしまいます。ドローンを使ってのミサイル攻撃も行われるようになりました。いわゆる軍備拡張競争、武器拡大競争は際限がありません。相手を倒すための殺人競争です。戦いに勝つためには、相手が持っている兵器以上の力ある兵器を持たざるを得ないからです。そのために、戦争をするための武器の性能は限りなく進歩しています。そして今、世界が恐れているのは核という兵器です。これは人間が戦う次元を超えたものです。

 ヨハネの黙示録が私たちに警告しているのは、この膨大な兵力や戦力が人間社会に何をもたらすかということです。ここには三つの言葉が繰り返されています。「火と煙と硫黄」です。これは何か旧約聖書的な滅びの感じがします。たとえば悪徳の社会となって非常に罪が重いとされたソドムとゴモラには硫黄の火が下されて焼き滅ぼされてしまいました(創世記19章24節)。この三つの言葉によって、不安と恐怖が象徴的に言い表されているのではないでしょうか。

 人間は様々な資源を用いて社会を発展させてきましたが、最近、地球の各地の海底におびただしいメタンガスが埋蔵されていることがわかってきました。既にそれを採掘して利用しようとしている動きもあります。しかし、人間が地球の資源から作りだしてきたものによって、この地球は様々な汚染が広がってきているのです。地球温暖化に対する対策もまったなしです。「火と煙と硫黄」という言葉は、多くの心ある人々、この先の人間社会について考えている人々には切実な警戒心を与えています。核が開発され、原子力発電によるエネルギー確保によって、人間社会は快適さを保てるかもしれませんが、放射性物質を適切に扱えない状況では、人間は肉体的にも精神的にも損なわれ、その時代だけでなく次の世代にもそのまた次の世代にも影響が残っていくことをしっかり受け止めて考えなければなりません。

 20節以下には、このような災害を免れた人たちの中で起こることが指摘されています。「(20-21節) これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」

 人間の三分の一が滅んでいく姿を見ていた人たち、後に残された人たちは共に生きている仲間たちと何を語るのでしょうか。このようにならないために、神の前に悔い改めよう、という気持ちにはならないのでしょうか。このところには、これらの災いで殺されずに残った人たちは、自分の手で造った偶像を拝むことを止めないと指摘しています。これは神によって創造された人間がしてはならないことで、十戒にある神の戒めを破ることです。しかしそのことを止めないというのです。

 ここには興味深いことが書かれています。「このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。」人間は見ることも聞くことも歩くこともできますから、これらの偶像は人間よりも無力です。しかし、人間はその偶像の無力さを利用しているのです。考えてみれば、今の世界状況は、悪魔的な力で汚染され、人間の心がズタズタになっている中で、人間は自分で造ったものを拝んで満足して、神の前に悔い改めずにいる姿なのです。

 宇宙開発もいろいろな科学の発達も、それらは素晴らしいことですが、いつしかそういう知識や技術が幅を利かせて、それがこの世の支配権を握っていくようになってきました。今や科学至上主義、経済至上主義、物質万能主義という時代になってきました。その中で、著しく病み衰え、ぼろぼろになっているのが人間の魂ではないでしょうか。

 このような厳しい世界状況の中、「私は大丈夫です。私は神を信じています。災いに遭うのは、神を信じていない人たちです。」と他人事のように思ってはいないでしょうか。たとえ神を信じていても、知らず知らずのうちに人間は人間が造ったものを崇めて生きる者であることを知らなければなりません。偶像は人間が作ったものです。それらは金や銀や銅や石や木等で作られていて、見ることも聞くことも歩くこともできません。そのようなことは私たちはよくわかっています。ですから偶像を拝むことはしないと思っているかもしれません。しかし人間は人間が造ったものを本当に拝んでいないと言えるでしょうか。新聞や雑誌の星座占いや運勢欄に書かれていることで自分の行動を制限したり、おみくじ、暦、方位、風水等、様々な言い伝えを気にしていることはないでしょうか。最近はパワースポットというところがあって「気をいただきに行く」という方がおられます。そういうことに気持ちが引かれることはないでしょうか。そういう行為もまたある意味で偶像礼拝につながります。

 そればかりか、人間が作りだしたあらゆるものが偶像になリ得るのです。社会的地位や名誉、学歴、専門の知識、有名人との関係など、そういうものに価値を置いているならば、そういうものに支配されて生きているということです。あらゆるものが偶像になるのです。それは神を信じている者であっても決して他人事ではありません。

 この黙示録では、神は私たちにいろいろな幻を示されます。それは私たちが悔い改めて救われ、神のものとなるためです。神はすべての人を招いておられるのです。神はすべての人が悔い改めて神のもとに立ち返るようにと、幻の内にこれから起こることを示しておられるのです。

 私たちが目を向けなければならないのは、幻で示される神の審きの警告と共に、なおこれらの審きにあって滅びないようにと、唯一、道を開いてくださるお方がおられるということを知ることです。5章5節にありましたように、「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」と言われているイエス・キリストの存在です。天の御座の中央に立っておられる、ほふられた神の小羊イエス・キリストです。私たちはこのお方を仰ぎ見ながら生きていきたいと思います。世界の救いはただこのお方にかかっているからです。世界の希望はただこのお方にあります。このお方によって世界の平和が来るのです。それを知っているのは教会であり、私たち主を信じる者です。

 神はすべてのことに時を定めておられます。いつの日か、この世界には神の国が来ます。そしてその時には神の審きもあります。私たちにはその時がいつかはわかりませんが、その時がいつ来るかと恐れて生きるのではなく、今置かれているところで、今なすべきことを、心を込めてやる、そういう日々を新しい週も過ごしていきたいと願っております。


(牧師 常廣澄子)