神の賜物は永遠の命

2023年5月21日(主日)
主日礼拝

ローマの信徒への手紙 6章15~23節
牧師 常廣澄子

 前回は、14節の御言葉「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」にありますように、私たち神を信じる者は、罪の赦しという恵みの下にいることを教えられました。そしてこの恵みの福音に秘められた神の力は大変力強くて、私たち人間を変革していく力があること学びました。

 パウロはそこからさらに展開して語っていきます。「(15節)では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」つまり、「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから既に赦されている。もう裁かれることはない。だから今からは何をやってもよいのだ。」という考えを持つかもしれないが、断じてそうではない、と語っているのです。これは6章1節で言われたこと「ではどういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」と似ています。別の角度から語っているのです。

 パウロは二つの生き方について語っています。「(16節)知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」一つは罪に仕える奴隷としての生き方で死に至るもの、もう一つは神に仕えて義に至る生き方です。私たちは皆一人の人間として生きていますから、一人の主人にしか仕えられません。もし私たちがキリストの僕でないのなら、罪の奴隷と言われても仕方がありません。ガラテヤの信徒への手紙4章8節には、「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」というように、書かれています。

 ここでは私たちがそのどちらを選んだかを明らかにしています。「(17-18節)しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。」私たちはキリストを信じて、罪から解放され、義に仕えるようになりました。また罪の奴隷状態に戻ろうとすることはありません。

 バプテスマを受けるということは、キリストに服従するという決断をすることです。キリストを信じるということは、まさにキリストのものになることなのです。ハイデルベルク信仰問答の第一問は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは、何ですか。」ですが、これに対する答えは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです。」とあるとおりです。

 私たちは、かつては神を知らずに罪の中で死に至る道を歩いていました。しかし、キリスト・イエスの贖いによって、恵みの支配下に移され、神の前にある命の道を歩む者とされたのです。そうであるならば、私たちは喜んで自分の身体を神に捧げる生活をすべきではないでしょうか。神が求めておられるように聖く生きるように努めるべきではないでしょうか。

 罪の支配下にあって奴隷状態のままで生きているのか、神の恵みの下で生きているのか、どちらの道を歩いているのかわからないような、いい加減な態度ではなく、はっきりと神が求めておられる道、神が喜ばれる道を歩んでいきたいと思います。パウロはこのように勧めています。「(19節)あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」では、罪から解放され、義の奴隷となって自由に生きている私たちはどういう生き方をしたら良いのでしょうか。私たちがイエスのものになったということは、金銭や学歴や名誉やこの世の価値観という奴隷状態から解放されて、新しく生きる者になったことなのです。

 もし私たちがいまだに罪に仕える奴隷として生きているなら、その行きつく先は死です。今日の世界の有様は本当に神を見失っている状態ですから、その結果、人々は生きる意味をも見失っています。生きている意味を見失っているのであれば、それは生ける屍にすぎません。そのような人間はどのような実を結ぶのでしょうか。「罪の支払う報酬は死である。」とありますが、そういう人の終りは死という滅びに他ならないのです。

 このように、罪の奴隷として生きていくならば、その最後は死という結果しか生み出さない虚無の世界であるにも関わらず、人間にはこの罪の世界が魅力的に見えるのです。その象徴的な出来事が創世記に書かれています。食べてはいけないと言われていた園の中央に生えていた木は、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」(創世記3章6節)と書かれています。

 今日、私たち人間社会にはびこっている問題のほとんどは、その根本には罪がからんでいます。見栄や外見、人の評価を気にする人がたくさんいるのです。お金がたくさんあっても、いつも家族がいがみ合い喧嘩ばかりの家庭もあります。塾や家庭教師のおかげで有名な志望校に合格できたにもかかわらず、遊び歩いて学校に行かなくなった子に悩んでいる親がいます。スマホ社会になって人間が抱える問題も多岐になっていますが、自分さえ良ければよいという独善的な考えで行動する人間が増えてきました。これら現代社会の問題の多くは罪の力によるものです。戦争ももちろんそうです。それはまず正義を否定し、人間性を否定し、善を否定し、神を否定するものです。その行きつく先は死です。

 しかし神の恵みは否定ではなく肯定の喜びです。正義を肯定し、それぞれの人間の異なる人間性を肯定し、隣人を肯定し、人の弱さをも肯定し、神の義を喜んで受け入れます。そして神の恵みは人間の死を生へと転換するのです。もちろん、神を信じるキリスト者にも死はあります。しかし「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25節)とあります。実際、主イエスは死人の中からよみがえられました。ここに死から生への転換があります。死という虚無の克服と勝利があるのです。

「(20-22節)あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

 神を信じることなく、神から離れて生きている人は、自分中心に生きていますから、正義を行わなくても何の責任も感じません。そしてその結果は魂の死に至るのです。しかし、神を信じて神の聖さを求めて生きる人は、感謝と希望に満ちていますから、限りない祝福を味わうことができます。しかし神を信じるということは簡単なことではありません。神の存在を信じるということは、普通の出来事のようにはできないのです。信じるということは一種の賭けかもしれません。

 普段だったら恐くてできないでしょうが、もし後ろから恐ろしい敵や猛獣が襲いかかってきたら、
高い崖や断崖絶壁から飛び降りることもできるかもしれません。火事の時にも、何とか助かろうとして高い窓から飛び降りる人がいます。人生には、このような土壇場に人が追い込まれ、飛び降り
ることしか道が無い場合があるのです。生への不安とでも言える状態です。神がいなければ何事も安らかでない状態です。人間関係やいろいろな問題に疲れ、傷つき、どこにも安住の地がない時、人は生きることへの激しい不安を感じます。そんな時、人は神をさがして神への信仰に飛び込むのです。そうして遂に神を見出す道もあります。

 しかしもう一つの道もあります。それはすでに神を信じていて、神からの祝福を味わっている人から、いろいろな話を聞いたり、あるいは自分で聖書や信仰書を読んで、少しずつ心が開かれていき、神の言葉や福音の真理に気づいて捕らえられ、遂に信仰に入るという道です。

 生きることへの不安から、断崖絶壁から飛び降りる思いで神を信じる人もいますが、信仰の先輩たちに導かれて素直に福音の真理を受け入れ、いつのまにか神を信じる人もいます。神を信じる信仰への道は人それぞれです。神はいろいろな方法で私たちを導いてくださいます。しかし、いずれの場合も、神に喜ばれる信仰生活を送るためには、自分の方から神に近づき、神に導きを求めて生きることがなければその信仰は成長していきません。

「(23節)罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」神を探すこともせずに神などいないと言って、自分の命を自分のために使い、罪に仕えて生きる人生の行きつく先は死です。ここに「報酬」と訳されている言葉は、もともとは、傭兵に支払う賃金のことでした。罪という主人は、自分に仕える奴隷たちに死という賃金を支払うのです。この死は肉体の死ではなく魂の死です。魂が命の源である神から離れて死んでいくことです。それに対して、神はおられると信じて自分の命を神に献げ、聖さを求めて歩む人には、神の賜物である永遠の命が授けられるのです。

 永遠の命というのは、永遠にいつまでも生き続けるという意味ではありません。私たちの魂が、命の源である神に結びつくことです。そして、そのことによって経験する限りない魂の平安と希望です。幹から折られた枝は、終には枯れて死んでしまいますが、幹に連なっている枝はますます元気になるように、私たちの魂も、神に結びついているかそうでないかによって、滅びに至るか、あるいは永遠の命に至るか、という大きく分かれるのです。人間の魂は、神に献げられるか、そうでないかによって、このように大きな相違が生じます。そうであるなら、私たちはパウロの勧めに従って、自分自身を神に献げ、また五体を義のための道具として神に献げなければなりません(6章13節参照)。

 私たちはこの世にある限り、この世の価値観の中で右往左往しています。そのためにキリストに献げたはずの命を再びこの世の汚れに染ませることもしばしばあります。ですから私たちは折あるごとに神への献身を更新し続けなければならないのです。そのためにも毎週の礼拝はとても大切です。私は神のものですと再確認することができます。礼拝の度に「あなたは私に命をお与えになりました。その命をあなたにお捧げするために生きております。」と信仰告白することができるならば
どんなに幸いなことでしょうか。

 パウロが勧めているように、私たち一人一人が神に身を献げて、主体的に生きていくなら、私たちの信仰は活気づき、教会は力強く動き出します。私たちはいま神の恵みの下に生かされ、神から永遠の命という賜物をいただいています。繰り返しますが、永遠の命は私たちの魂が命の源である神に結びつくことです。それは死に臨んだ時も、死を超えた先にもある限りない魂の平安です。この約束は、いつの日か死を迎える私たちにはそれは何よりも大きな慰めであり希望ではないでしょうか。

(牧師 常廣澄子)