神の偉大な業

2023年5月28日(主日)
主日礼拝『 ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝 』

使徒言行録 2章1~13節
牧師 常廣澄子

 本日はペンテコステ(聖霊降臨)を感謝する礼拝です。一般的に、このペンテコステ(聖霊降臨)は教会の誕生にあたると言われていますが、それは歴史的、年代記的な意味ではなく、信じる者の集まりである教会というものの成り立ちの根本的な意味で言われているのです。聖霊降臨という言葉だけを聞いていますと、なんだか大変古めかしい神話のように思われるかもしれませんが、使徒言行録の聖霊降臨の出来事には、今の私たち人間世界にとって、大変素晴らしい神の恵みが語られています。この出来事が今の私たちにどのような事を語っているのか、見ていきたいと思います。

 その前にまずイエスの十字架と復活のことを思い出していただきたいと思います。使徒言行録1章3節には、「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。イエスは十字架の死を遂げて墓に葬られましたが、三日目に復活されて、天に帰られるまでの四十日の間、使徒たちに現われてくださいました。そしてその間にイエスが人々に語ったことは、イエスが生きておられた時と同じように「神の国」についてでした。

 なぜなら、「神の国」という福音は、イエスの死によって終わってしまったのではなく、イエスの死後もなお真実であり、確実であることを知らせるためだったからです。「神の国」というのは、神の支配ということです。そしてその中身は、神の義であり、神の前にある人間の命のことや自由、平和、希望等が含まれています。復活のイエスが四十日にわたって使徒たちに現われ、「神の国」について語られたことは、リーダーを失った使徒たちの存在を力強く支えていました。

 イエスはご自分が生きておられることを示しながら、「神の国」のことを話されたのです。そしてイエスは天に挙げられる前に次のように言われました。「(1章4節)そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」このイエスの言葉を守って、使徒たちはエルサレムを離れず、聖霊が降るとあなた方は力を受けるという約束(1章8節)を信じて待っていたのです。

「(1節)五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」使徒たちは一同に集まっていました。1章14節にも書かれていますが、彼らは皆、ともに集まって心を合わせて熱心に祈っていたのです。五旬祭というのは、過越祭、仮庵の祭りと共に、律法に出て来る三大祝祭の一つで、過越祭の翌日から五十日目に守ったので五旬祭と言われています。五十という数字はギリシア語ではペンテコステといいますから、ペンテコステの祭りとも言われています。もともとは小麦の収穫を祝い喜ぶ祭りでした。「刈り入れの祭り」(出エジプト記23章16節)とも「初穂の祭り、七週の祭り」(出エジプト記34章22節)とも呼ばれています。これらの祭りの時には、ユダヤ人は神殿に参詣する義務がありましたので、各地からの巡礼者が大勢エルサレムに集まって来ていました。

 さて、使徒たちが一同に集まっていた時のことです。「(2節)突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」この「天から」という言葉からは、何か超自然的な出来事が起こったことが想像できます。「激しい風」、この風は霊とも訳せる言葉です。ヨハネによる福音書3章には、人が新しく生まれることについてのイエスとニコデモの会話がありますが、そこでは霊が風として語られていました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」とあります。

 ここでは「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえて、それが家中に響いた。」とあります。ここに集まっていた者は、ただ漫然と座っていたのではなく、心を合わせてひたすら祈っていました。祈るという行為は、人間を超えたお方に心を向けていることです。一同が心を合わせて神を見上げていたのです。その時、彼らの信仰に応えて天からの応答があったのです。それはものすごい音として家中に響きました。

「(3節)そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」「炎のような舌」「炎」というのは不純な思いや汚れや不浄なものを焼き滅ぼす力を持っています。「舌」は言葉を表しますから、真実の言葉、真の意味での認識を表しているのだと思います。しかもそれが「分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまった」のです。そこにいた一人ひとりに「炎のような舌」つまり真実の言葉が与えられたということは、一人ひとりの主体的な信仰が確立したということです。つまり自らの義を主張するのではなく、神の義と支配の前にへりくだる態度です。自分の思いが正しいと思い込む自我の高ぶりで他者の思いを否定したり、排除しようとする思いは焼き滅ぼされました。ここに真の共同体の形成に必要な人間のあるべき姿があります。

「(4節)すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」人間的な思いや考えが排除された時、そこに天からの力が働きます。一同は霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだしたのです。それは赦しと愛に満ちた神の霊が語らせる、神を証言する言葉であったことでしょう。

「(5~6節)さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」当時エルサレムには、天下のあらゆる国から五旬祭のために帰ってきていた信心深いユダヤ人がいました。また、一同が集まっていた家の周囲にも道路上にも大勢の人がいたことでしょう。いずれにせよ、誰もかれもが、激しい風が吹いて来るようなものすごい音に驚いて集まって来ました。するとガリラヤ出身で教養のない使徒たちが、自分たちの生まれ故郷のいろいろな言葉で語っているのが聞こえてきましたから、さらに驚いたのです。

「(7~8節)人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」ガリラヤという土地は当時ユダヤ人に軽蔑されていました。それはガリラヤ地方が、律法を守っていない貧しくて賤しい人々が多く住む異邦人の土地だからです。ヨハネによる福音書7章41節には「メシアはガリラヤから出るだろうか(あんな所から出るはずがないという意味)。」と言われていますし、祭司長やファリサイ派の人々は、イエスを弁護したニコデモに向かって「あなたもガリラヤ出身なのか(同7章52節)。」と軽蔑する言葉を投げかけるような土地でした。

 人々からそのような評価を受けていたガリラヤ出身の使徒たちが、今やいろいろの国の言葉で神の言葉を語っているのです。人々が驚くのももっともです。実際、神の真実を語る言葉は、人間的な知恵や地位や権力の大きさには関係しません。宗教的な敬虔さや道徳的な聖さにも関係しません。神のみ心を語る真実の言葉は、神の前にある謙虚さと、一人ひとりの主体的な信仰によるのです。

「(9~11節)わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここにあげられている国や地方の名前は、当時の全世界を表しています。離散(ディアスポラ)のユダヤ人は天下のあらゆる国々からエルサレムに帰って来ていたのです。

 一方で、当時の人達にとってこれらの国々や地方の名前は、大変現実的な重みを持っていました。
これらの国や地方は、長い激しい戦いを経て強大なローマ帝国に組み入れられた国々なのです。ローマ帝国に不当な圧迫を受け、憎しみを持っている国々や人々がいました。その抑圧の中で、互いに敵視し、軽蔑し合っていました。そこには政治的、経済的、宗教的、人種的、あらゆる面での断絶や疎外感が存在していたのです。

 けれども今や、これらすべての問題を突き破って、使徒たちは様々な国の言葉で、神の偉大な御業を語っていたのです。ここにはすべての人が理解できる言葉が語られていたのです。つまり神から与えられた聖霊は、人間同士をつなぎ合わせる統合の言葉として働いていたということです。これらの言葉は、人間同士が互いに理解し合い分かり合うことへと、人間たちの分断した関係を回復していったのです。

 回復という言葉を使ったのは、この出来事が明らかに旧約聖書(創世記11章)の「バベルの塔」の出来事に呼応する出来事だからです。その昔、世界は同じ言葉で同じように話していました。しかし、天まで届く塔を建てて世界に君臨しようと傲慢になった人間を、神は言葉を混乱させて世界各地に散らされたのです。それでバベル(混乱)の塔は崩壊し、今なお人間社会は混乱したまま、悲惨な状況に陥っているのです。

 人間同士が真の意味でつなぎ合わされるためには、いま人間が置かれている状況をしっかり認識しなければなりません。それは神の前にある罪人である人間の姿です。それがわかるのは神の光に照らされた時です。そして、今世界に起きているあらゆる人間的混乱を神のみ心にそうように統合していくためには、共通の言葉が必要です。それが神の言葉なのです。それこそが「神の偉大な業」神の大いなる働きです。

 人々は神の大いなるみ業に驚きました。「(12節)人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。」人間が神を信じて生きる時、人間の思いや行為を越えて、思いもしない解決策や方法に導かれることがあります。それは人間が自分の全存在をかけて神に信頼して生きる時に、はからずも起こることであり、大きな驚きを伴うのです。それは私たち人間が日々神に信頼して生きる時、神のみ業を信じて切に祈り願う時にもたらされます。人間の知恵や計画によって生み出されるものではありません。ですから、私たちは信仰によって、心を尽くして神の偉大なみ業により頼むのです。その時世界の回復が実現し、神の国が来るのだと思います。

 しかしながら、罪の中にいる人間はなかなか神への立ち返りに心が向きません。人間の真の統合という回復を求めず、憎しみに留まったまま分裂し、自我を貫徹することに固執し、他者を排除し圧迫し阻害し続ける人々にとっては、神の言葉はたわごとにすぎないのかもしれません。「(13節)『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」このように、神のみ業を信じようとしない人々は今もたくさんおられます。実際、この後でペトロが弁明するように、使徒たちは酒に酔っていたわけではありません。しかし、これらの人達ははからずも本当のことを語っています。聖霊を受けたこれらの使徒たちは、天から与えられる聖霊というぶどう酒に満たされていたのです。

 ペンテコステの出来事を通して神が私たちに語っているのは、人間が再び統合していくという回復のイメージです。このみ言葉が語っているように、人間社会の回復の方向性は明らかです。私たちは人間が現在置かれている状況を真に正しく認識し、神の御言葉によって導かれなければならないということです。復活の主はいまも共におられます。困難な時代ですが、神の息を受け、力をいただいて歩んでいきたいと願っております。ノアの方舟の時、鳩は止まる所がなくて戻ってきましたが、今、聖霊の鳩は、神を信じる者の上に留まっていてくださいます。

(牧師 常廣澄子)