2025年5月25日(主日)
主日礼拝
使徒言行録 11章19~30節
牧師 常廣 澄子
私たちは今、使徒言行録を読みながら、イエスの死後、その教えがどのようにして世界に広がっていったのかを学んでいます。イエスは当時ユダヤを支配していたローマ帝国に反逆した人物として十字架で処刑されました。ですから、イエスを信じていた弟子たちは、次は自分たちの身にも危険が及ぶと察して、逃げたり隠れたりしていました。しかし、天に挙げられたイエスに代わって、聖霊が降り、信じる者に豊かに与えられましたから(その感謝の礼拝が来月6月8日のペンテコステ礼拝です。)、ステファノのように堂々とキリストへの信仰を語って殉教する者が現れたのです。
ところがステファノが殺害された後、何が起こったかは、既に学んできた8章に書かれていました。「8:1bその日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった。」「8:4さて、地って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」とありますように、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、迫害された人たちは、各地に散って行ったのです。そしてその行く所行く所でイエスの福音を語ったというのです。それはフィリポによるサマリアの伝道であり、ガザでのエチオピアの高官の救いであり、10章で読みましたように、ペトロによるカイサリアのイタリア隊の隊長コルネリウス一家の回心などです。
本日お読みしたところは、本来ここに続くものです。「11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」ステファノの殉教の後に起きた大迫害でエルサレムを追われ、散らされていった人々は、そのほとんどがヘレニスト(ギリシア語を話すユダヤ人)のクリスチャンでした。その中のある人たちは地中海沿いにあるフェニキアに行き、ある人たちは地中海を渡ってキプロス島に行き、またある人たちはオロンテス川に沿ってアンティオキアにまで進んで行ったというのです。
このアンティオキアについて少し説明しておきますと、このアンティオキアという都市は、アレキサンダー大王の後継者であるセレウコス・ニカトル(ギリシア人)が建てた新しい都市で、海岸から25キロほど内陸に入ったオロンテス川の河畔に位置しています。当初はセレウコス王朝の首都でしたが、ローマ帝国の支配下に入ってからはシリア州の首都としてローマ総督が駐在していました。またこのアンティオキアは、ローマとアレクサンドリアに次ぐ、世界第三位のマンモス都市でした。周囲の人口も加えれば、およそ80万人ほどの人口があったと言われています。アンティオキアは美しい都市で、「東方の女王」「麗しのアンティオキア」「大いなるアンティオキア」等と呼ばれていたようです。
「11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」このアンティオキアにやって来た人たちの中には、キプロス島出身のクリスチャンや、エジプトの西の方にあるキレネ出身のクリスチャンがいて、ギリシア語を話す人たちに主イエスの福音を語りかけていったというのです。19節に「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」とありますように、はじめの内、彼らの伝道対象はユダヤ人に限られていました。
私たちは聖書を順番に読んでいますから、フィリポのサマリア伝道や、エチオピアの宦官に伝道したことや、ペトロがイタリ隊の隊長に伝道したことなどを知っていますから、「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」と書いてあるのを不思議に思います。しかし実際のところ、これらの人々は迫害を恐れて各地に散っていったのですから、フィリポやペトロがどういうことをしたのか知らないのです。ユダヤ人に伝道するだけで精いっぱいだったのです。
しかし、このアンティオキアにやって来たヘレニストクリスチャンたちは、主の福音が自分たちにとってこんなに素晴らしいのだから、異邦人にとっても良いものに違いないと考えて、得意のギリシア語を使ってアンティオキアに住むギリシア人たち「イエスは主である」と宣べ伝えたのです。この伝道は非常に成功しました。「11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」大勢の人たちが主に導かれました。その正確な数字は記録されていませんが、この後、このアンティオキア教会は、エルサレムにある教会やユダヤの諸教会を援助するまでに急成長していきます。パウロの伝道に対するスポンサーも実にこのアンティオキア教会です。
このように順調に成功していった理由はいくつも考えられますが、一つはここが世界第三位の大都市であったということです。大都市にはいろいろな国からいろいろな人たちが集まっていますから、あらゆる可能性があります。キプロス島出身のクリスチャンやキレネ出身のクリスチャンが、ギリシア語を話す人たちに伝道しようとした行為は、彼らが固定された考えに囚われずに非常に前向きで、冒険心に富んだ独創的な人たちだったからでしょう。またこれらの人たちが忍耐力を持っていたことも大きな原因だと思います。20節にある「福音を告げ知らせた。」この「告げ知らせた」という動詞は単なる過去形ではなくそれが継続しているという意味があります。一回や二回で諦めるのではなく、繰り返し継続して伝道していったのです。
さらに、ここでの伝道が成功した真の理由は「11:21 主がこの人々を助けられたので」彼らの行動には主の御手が伴っておられたのです。主の御霊の特別な働きかけがあったということです。これらの人たちは伝道者として特別に何らかの訓練を受けていたわけではありません。素朴に単純に主の名を伝え、救い主を紹介しただけです。それも一度や二度でなく繰り返し語り続けたことは主の御手の導きがあったからです。彼らはただひたすら主の救いの福音を語り続け、またそれを聞いた者たちは信じて主に立ち返ったのです。
このように、アンティオキアでの伝道活動は、まったくの信徒運動、信徒の自由な活動でした。「11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。」アンティオキア教会のこの素晴らしい伝道活動は、遠くエルサレム教会にも伝わっていきました。それでエルサレム教会では様子を見て来るようにと、代表使節としてバルナバが派遣されたのです。
バルナバは、4章36節に「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――『慰めの子』という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ」とあるように「キプロス島生まれのレビ人」でしたから、キプロス島とキレネ出身のヘレニストたちが行っていた伝道活動を理解し、互いに意志疎通をはかれる絶好の人物でした。また彼は「慰めの子」という意味のバルナバと呼ばれていたくらいでしたから、上から命令する人ではなく慰め励ます人でした。エルサレム教会は非常に的確な良い人を派遣者として選んだのです。
アンティオキア教会に来たバルナバがしたことは二つあります。その一つは「11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」ことです。まず「神の恵みが与えられた有様を見て喜び」ました。ユダヤ人も異邦人も共に福音を信じて祝福されているのを見て、心から感謝し喜んだのです。そして問題はそれが一時の事ではなくこれからも持続されていくことです。それで彼は「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」のです。
これはとても大切なことだと思います。私たちが真の神を信じてクリスチャンになることは良いことです。そして今クリスチャンであることはもっと良いことです。さらに言えば、クリスチャンであり続けること、これが最も大事なことではないでしょうか。それにはバルナバが言ったように固い決意が必要なのです。与えられた生涯の終わりまで、主にとどまって歩み続けていけますようにと心から願っております。
バルナバがしたもう一つのことは、サウロを捜しにタルソスまで行ったことです。当時の旅は簡単ではありません。しかしタルソスまで行ってそこでサウロを捜して終に彼を見つけ出すと、アンティオキアに連れてきました。そして丸一年間一緒に働きました。「11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」この箇所は、クリスチャンの集まりに「教会」という言葉が使われた最初の例です。それほどにこのアンティオキアのクリスチャンたちは立派な教会を築いていたことがわかります。
バルナバは、「9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。9:27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」とありますように、エルサレム教会の人たちに、主イエスがサウロに語られたことを紹介したほどの人ですから、きっとサウロから復活の主との語らいを詳しく聞いていたことでしょう。バルナバは心の中できっと「サウロは異邦人伝道のために神に選ばれた器である、彼をアンティオキアの異邦人伝道のために用いないことがあってよいものか、そこでこそサウロは主のお役に立つのだ」と思っていたに違いありません。
バルナバは実に欲や私心の無い人だと思います。アンティオキアに来て、異邦人の新しい信徒たちを喜んで受け入れ、新人のサウロを連れて来て一緒に働いています。要するにバルナバの態度は自分の名声をあげることではありません。ただ神の恵みを見て喜ぶ人なのです。これは誰でもできることではありません。ですから「11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。」とわざわざ説明されているのです。こういう人こそ、本当のクリスチャンだと思います。
さて、バルナバとサウロが教えていた一年の間に、「11:26Cこのアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」主の弟子たちはこのアンティオキアで初めてキリスト者(クリスチャン)(ギリシア語ではクリスティアノイ)と呼ばれるようになったというのです。キリスト者(クリスチャン)とは、キリストというギリシア語「クリストス」にラテン語の語尾がついてできた言葉です。例えばヘロデを支持する人たちをヘロデ党のメンバーを「ヘロディアン」(ヘロディアノイ)と呼んだり、カイザル一派の人たちを「カイザリアン」と呼ぶように、キリストを宣べ伝え、宣伝する弟子たちを「キリスト党員」というようにあだ名で呼ばれたのです。
また、彼らがキリスト者(クリスチャン)とあだ名されるという事は、キリスト(クリストス)を合言葉にして、絶えずキリストを証して行動していたからだと思います。ふつうあだ名で呼ばれるということは、お高く留まっている上流階級の人たちの間ではなく、親しみ深い庶民の間で生まれます。使徒言行録を書いたルカは、このニックネームには、アンティオキア教会のクリスチャンたちがアンティオキアの市民の中に入って伝道していき、それが違和感なく受け入れられていること、またそういうクリスチャンの素晴らしさを記録したのだと思います。
その頃に起きた出来事があります。「11:27 そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。11:28 その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。」クラウディウス帝は紀元41-54年在位の皇帝です。この時期にはユダヤ全土に何度も激しい飢饉がありました。「11:29 そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。11:30 そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。」アンティオキア教会では弟子たちが話し合って、それぞれの力に応じて自発的に援助の品を送ることを決めたのです。誰かが命令したのではありません。それぞれの力に応じて自由に献金されたのです。そしてこの原則はずっと後までも守られています。災害が頻発しているこの時代に生きている私たちもそれぞれの力に応じて、心を込めて自発的に援助や支援をしていきたいと思います。
ところで、このことが何より私たちの心を打つのは、アンティオキア教会がこんなに早く、こんなに積極的に、遠くのエルサレム教会のために献金しようとした、その愛と心の広さ、聖徒の交わり意識の強さです。アンティオキアからエルサレムまではおよそ500キロメートルもあるのです。(東京から岡山あたり)主にある兄弟姉妹たちを心配して自発的に惜しみなく捧げる心とその熱心さは、やはりクリスチャンとあだ名されるほどに、キリストの愛で満たされていたからではないでしょうか。私たちもそうでありたいと心から祈り願っております。