2025年6月8日(主日)
主日礼拝『 ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝・誕生日祝福 』
使徒言行録 2章1~13節
牧師 永田 邦夫
本日は、ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝です。はじめに、ペンテコステ、すなわち五旬祭の起源について説明しておきます。
ユダヤには大きな祭りが三つありました。それは過越祭、五旬祭そして仮庵祭です。この中で、本日の説教に関連します五旬祭は、過越祭(出エジプトを記念して定められた祭)から数えて50日目に当たることから命名されました。
この五旬祭について、歴史的な経緯を確認しますと、元来は小麦の刈り入れが終わったときの「鎌納め」という農耕的な祭りがその起源だったとのことです。
そして後代のユダヤ教では、「この日にシナイ山で十戒が与えられた」という歴史的意味が加わり、律法記念日として守られてきたそうです。
そして、主イエスが昇天されたのち、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていたとき」に、聖霊が降ってきました。この聖霊降臨の出来事によって、新しい愛の律法に生きるキリスト者の群れ、すなわちキリストの教会が誕生したのです。
主イエス昇天後の五旬祭には、福音がそれぞれの国の言葉で、諸国民に理解されるようになりました。
なお、この五旬祭を聖霊降臨日とすることに対して、異を唱える聖書学者もいます。その根拠は、神は永遠に、父・子・聖霊なる神(三位一体の神)であって、天地創造のときから聖霊なる神もおられ、さらに旧約聖書の時代にもおられたとするものです。
そしてこの場合の裏付けの聖書個所として、使徒言行録1章16節「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」を挙げています。
しかしこの時代には、「ダビデの口を通して、云々」とありますように、聖霊は特定の人を通してだけ降ったように理解できます。
では本日の説教箇所ではどうでしょうか、早速入っていきましょう。
使徒言行録2章1節2節には「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。なおこの箇所は岩波版の聖書では、そのときの現状を醸(かも)し出すかのように、「そして、五旬節の日が満ちて、皆の者が一団となって共に集まっていた。すると突然、烈風吹きすさぶがごとき音響が天から湧き起こって、彼らが座っていた家全体を満たした。」と、ドラマチックな表現で書かれています。
さらに、聖霊が降った後の様子が詳しく記されていて、そのとき集まっていた人にどの様な変化が起こったのか、その詳しい様子が3節4節に「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。
以上、1節から4節には、五旬祭に聖霊が降った様子と、その聖霊を受けた人達がどのように変化したのかが詳細に記されております。
この箇所から示された、聖霊降臨の時の様子から、非常に特徴的な点を整理して記します。
その1:聖霊が一同に降ったとき、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあるように、聖霊は人間の思いではなく、突然に天から(すなわち、神のご支配に基づいて)降り、さらにそのとき鳴り響いた音も、そこにいた周りの人が客観的に聞き分けることができたのです。
その2:次は、炎のような舌が現れた様子について。
「舌」とは言語と同じ意味をもっています。すなわち、聖霊は言葉となって、一人一人に降ったことを表しています。そしてさらに、“舌が現れ一人一人の上にとどまった”このことも、周りにいた人々が客観的にそれを確認できたのです。すなわち、そこにいた人々が自分の目で、それを見届けたことを表しています。
聖書をもう一度確認しますと、聖霊が降ったとき、その様子を見ていた周りの人々が、自分の五感でその音を聞き分け、かつ目で見分けることができたのです。
「風」は聖霊の自由さを表しています。また、神がそのような聖霊をわたしたち全体にではなく、一人一人(個々人)に送ってくださるのです。
「炎」も同様に、聖霊なる神がわたしたちに宿る時に、わたしたちに影響を与え、また力を与えてくださるのです。これも本当に素晴らしい出来事です。
このことをわたしたちの伝道集会、特別集会に当てはめて考えてみましょう。特別集会などで、感動的な経験をすることがよくあります。そんな時、自分をも含めて、その集会に参加している周りの人たちとも、共に大きな喜びを分かち合い、共有しながら、時には感動の涙さえも共に分かち合うことになりましたら素晴らしいことです。
次は4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。ここには1節から3節まで詳しく示されてきた聖霊を受けた人にどの様な変化があったのか、聖霊によってどのように変えられたのかが記されています。
そこに集まっている一人一人は違う故郷から集まって来たので、言葉もそれぞれ違っています。ここで「“霊”が語らせるままに」とありますように、神の霊すなわち聖霊が、一人一人に宿って「ほかの国々の言葉」を語らせたのです。
ではここで、一人一人に宿っている聖霊が、その一人一人にとってどのような役割を果たしているのかを、わたしたち一人一人が、志村教会で果たしている役割を考慮しながら考えていきましょう。
その(1):聖霊はわたしたちそれぞれが教会で果たす役割について、その力の源泉となって働いてくださいます。
フィリポとエチオピアの高官の話が、使徒言行録の8章26節から40節までに記されておりますが、“霊”すなわち神の霊は、フィリポを導いて、エチオピアの高官に 近づくことを可能にしてくれました。
使徒言行録8章29節30節には「すると“霊”がフィリポに『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると云々」とあります。この様に一見、不可能そうに見えることが、聖霊の働きによって可能とされることがあります。これこそ、神の力すなわち聖霊の力です。
その(2):最も基本的なことですが、聖霊はわたしたちそれぞれが教会で主に仕える働きをするときに、わたしたち夫々に力を与えてくださいます。
復活の主イエスさまは、天に上げられるとき言われました。
「あなたがたの上に聖霊が降る時、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」〈使徒言行録1章8節〉と言い残して、復活の主は天に上げられたのです。
このことに感謝しながら、わたしたちは勇気を持って主に仕えていきたいものです。
では5節に入っていきます。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」とあります。
これを簡潔に整理しますと、五旬祭の日に、使徒たち一同が一つになって集まっていたときに(ここは、“神がもたらされた大きな団結”を感じます)聖霊の降臨があったのです。その結果“霊”が語らせるままに、いろいろな言葉で語りだし、その声が周りに響き渡ったのです。そしてそれを聞いた周りの人にとっても、自分の故郷の言葉で話しているように、聞き取れたのです。これも神の為せる業と思います。
そして、これを聞いていた人々は、あっけにとられてしまって、驚き怪しんで発した言葉、それが7節から11節の言葉です。小段落に整理しお伝えします。
(1) 集まって来た人たちが驚き怪しんで発した言葉「話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか」(ここにはガリラヤの人たちを蔑んでいるようなニュアンスが感じとれます。)(7節8節から)。
(2) 彼らの出身地は、パルテイア、メディアなど、ユダヤの東方やカスピ海など、広範囲にわたっています。(9節から11節)
(3) 集まった人々が、驚き発した言葉の数々について「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」などです。この言葉は、前述(1)(2)とは異なって、強い信仰的な意味合いを込めて言っているのでほっとさせられます。
以上、本日箇所は、主の弟子すなわち使徒たちが、五旬祭(ペンテコステの日)を迎え、共に集まり、力強い言葉で祈り、そしてその復活の主に応えながら、周りに響きわたるような大きな声で、共に祈っていたのです。
わたしたちも特別礼拝など大きな催しの日に、共に集まり共に大きな声で賛美し祈る、これは素晴らしいことです。そのとき参加した人や、周りに集まって来て、その様子を見た人たちも、きっとそこから大きな感動を得ることでしょう。
聖霊が降臨されたことによる大きな感動を、わたしたちも日々の生活で体験したいと思います。