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神の真実

「コリントの信徒への手紙」は、パウロがコリントにある教会に宛てて書いたものです。このコリント教会は、パウロが第二回伝道旅行の時にこの地を訪れ、約一年半程滞在した時につくった教会です(使徒言行録18章参照)。パウロはその後エフェソに移りましたが、そこへコリントからやって来たクロエの家の人たちから、コリント教会の中で争いがあると聞いたものですから(1章11-12節参照)驚いて早速この手紙を書いているのです。パウロはコリントを去ってからも、この教会のことを思って祈り、心を砕いて関わっているのです。

正義と恵みを求めよ

職業的預言者でも何でもなかった南ユダの国に住む一介の牧者にすぎないアモスが登場して神の言葉を預言したのです。アモスはこの繁栄の陰にある罪を指摘しました。ここでアモスは「主の日」について語っています。「主の日」は神の正義が誰の目にも明らかなものとして示される時です。正義がなされる時には悪は裁かれます。アモスはイスラエルが神の前に悔い改めて生きること、主を求めて生きるようにと勧めているのです。悔い改めて主を求めて生きないならば、必ずイスラエルに主の裁きが臨むのだと語りました。

自分を鍛える

テモテは、ユダヤ人の母とギリシア人の父の家庭に生まれた人です。彼はキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いでキリストへの信仰を持つようになりました(テモテへの手紙二1章5節)。そしてパウロが二回目の伝道旅行でリストラを訪れた時に、そこの教会で大変評判の良かったテモテに会って、伝道旅行に同伴するようになったのです(使徒言行録16章1〜3節)。

手の萎えた人のいやし

「ある日、イエスが教えておられるとき、長年、中風を患っていた人を、仲間内で床に乗せイエスさまの許に運んで来ましたが、家の中に入ることができず、屋根から吊り降ろして、イエスの前に辿り着いたのをイエスはご覧になって、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われたことで、一悶着(ひともんちゃく)はあったものの、更に、イエスさまの癒しと、励ましのお言葉によって、その中風の人が癒されたことに、人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた」と、5章17~26節にありました。

嘆きを聞かれる神

この6編は、キリスト教の伝統の中では七つある「悔い改めの詩編」の中の一つです。しかしながら読んでいただくとお分かりのように、ここには何かを悔い改めている言葉がありません。直接的に罪を告白しているようなところもありません。ただ2節や3節を読んでいきますと、「怒ってわたしを責めないでほしい、憤って懲らしめないでほしい。」と願う間接的な祈りがありますから、ここに罪の告白があると読み取られているのです。どうもこの詩人がなしたことを主が怒っておられ、その憤りによって自分は懲らしめられている、と告白しているようです。ですからここには詩人の深い罪意識があり、この詩には悔い改めや懴悔の気持ちが込められていると考えられているのです。

苦難の中の慰め

今朝お読みした個所は、新共同訳聖書では「苦難と感謝」というタイトルになっていますが、ここには「苦難」と「慰め」という言葉が何度も出てきます。コリントの信徒への手紙はパウロによって書かれた手紙ですので、背景にはパウロが体験した様々な出来事があり、その体験を通して得たキリストへの信仰の恵みが語られているのです。

み言葉の危機

今朝は、アモスという紀元前8世紀中頃に活動した預言者の言葉から聞いていきたいと思います。預言者の中でも聖書にその言葉が残っている人を記述預言者と呼んでいますが、アモスは記述預言者の最初の人です。ただアモスが預言者として活躍したのはごくわずかの期間であったようです。

断食問答

ルカによる福音書からの説教を続けておりますが、本日箇所の5章33節に入りますと「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」と、唐突な入り方をしています。そして、その中心テーマは「断食」です。因みに直前の段落(前回の説教箇所)では、“罪人と共に食事をすること”が挙げられていました。すなわち、この両者共に食事を巡っての事柄です。さらに前後二つの段落の“流れ”から見ても、本日箇所は前の段落から続いている一つの大きな段落である、と言われています。さらにもう一つ、この大きな段落は、共観福音書すべてに共通している、“大きな問答集の中の一コマ”でもあります。

主を待ち望め

今朝はルターが深く愛したと言われている詩編130編から神の御心を聞いていきたいと思います。この詩編は8節までの比較的短いものですが、豊かな感情表現が盛り込まれていて、人間の罪と神の恵みとの間の深い関係が示されている御言葉です。有名な讃美歌258番(日本基督教団出版局発行讃美歌)は、ルターが自分の気持ちをこの詩編の御言葉に託して作られたと言われています。この讃美歌1節の歌詞は、「貴きみかみよ、悩みの淵より 呼ばわるわが身を 顧みたまえや。み赦し受けずば きびしき審きに たれかは堪うべき。」というように、130編の御言葉がそのまま基になっています。

主と共なる生と死

パウロは「(8〜9節)わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」というように、イエス・キリストを信じて生きる者は、たとえ途方に暮れるような、八方塞がりの事態が起きても絶望しなくて良いのだ、主の助けがあって必ず出口があるのだ、苦難があっても決して見捨てられた訳ではない、打ち倒されたように思えても起き上がれないほどに決定的なことではないのだ、キリストにつながってさえいれば、必ず再び立ち上がって歩みだすことができるのだと語りかけているのです。