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光は世に来た

ヨハネによる福音書 1章6~18節   牧師 常廣澄子         皆さま、クリスマスおめでとうございます! 子ども讃美歌にもありますが、クリスマスは「うれしい、たのしい、クリスマス」です。 ではクリスマスがおめでたいのはなぜなのでしょうか。 私たちは何をお祝いし、何を喜び、何を感謝するのでしょうか。

命に満ちた言(ことば)

ヨハネによる福音書 1章1~5節 牧師 常廣澄子        皆さま、こんばんは。 ようこそ、志村バプテスト教会のクリスマス・イブ礼拝においでくださいました。 今日初めて教会においでくださった方がおられましたら、心から歓迎いたします。 あなたをお誘いくださったのは、お友達かもしれませんしご家族かもしれませんが、今夜、あなたがここにおいでくださったのは、あなたを愛しておられる主なる神様のお導きです。

知識と愛

コリントの信徒への手紙一 8章1~13節 牧師 常廣澄子   この個所は、パウロがコリント教会から届けられた質問状に答える形で語っています。まず7章では結婚と独身をめぐる問題について語られていました。それに続いてこの8章では、偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかという問題について語っています。これは単に食べるか食べないかということだけではなく、偶像に対してはどのように対応するかという信仰の問題であり、偶像に囲まれて暮らしている私たち日本人キリスト者にとっては実に身近で大切な問題だと思います。この個所は

イエス、死と復活を予告

ルカによる福音書 9章21節~27節 牧師 永田邦夫     本日は、待降節の第三週の主日礼拝です。また、クリスマス礼拝も二週間後に近づいています。そのことにも思いを馳せながら、この時期を過ごしていきたいと願っています。

大いなる日が来る

ヨハネの黙示録 6章1~17節 牧師 常廣澄子       ヨハネの黙示録は、著者ヨハネを通して示された幻が書かれています。この幻は神から与えられた啓示ともいうことができます。しかしこの幻は大変奇妙で不思議な幻ですので、書かれたものを読んだだけではなかなか理解できません。いや、見方を変えれば、理解できないように書かれていると言った方が良いかもしれません。

アブラハムの信仰

ローマの信徒への手紙4章13~25節 牧師 常廣澄子 本日はローマの信徒への手紙の4章から信仰について考えていきたいと思います。今、私たちは見える世界の中にいますが、信仰というのは目に見えない世界のことです。1節に「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」という言葉がありますが、私たち人間は身体という肉体を持っていますから、肉に従って生きています。つまり生から死へという生き方です。しかし、信仰の世界、見えない世界に目を向けた時、そこには霊による生き方、死から生へというよみがえりの人生に生きる生き方があるのです。私という人間を、神から支えられている者、神と関わる霊的な人格として認識するということです。

五千人の供食

ルカによる福音書 9章10~17節 牧師 永田邦夫      先週、13日の主日礼拝には、シンガポール国際日本語教会牧師、伊藤世里江先生をお迎えしての礼拝に、沢山の方々の出席をいただき、本当に恵まれた時を持つことが出来ました。先ずこのことを、主なる神に感謝いたします。わたくしたちの志村バプテスト教会は、60有余年の歴史と共に、世界に向けての大きな広がりをもっていることも、また改めて感じさせられた時でした

つながれば、生きる

コリントの信徒への手紙一 12章22~27節 シンガポール国際日本語教会牧師 伊藤世里江   聖書:22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたし

巻物を解かれる方

ヨハネの黙示録 5章1~14節 牧師 常廣澄子        ヨハネの黙示録は、著者ヨハネが見た幻について書かれています。この幻は神がヨハネにお示しくださった啓示ということができます。しかしこの幻は大変奇妙で何のことかなかなか分かりづらいのです。そしてそれを見越したかのように、繰り返し繰り返し、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くが良い。」と語られています。今これを読む私たちもまた、心の目、霊的な目を開いてこの幻を見、また霊の耳をしっかり開いて聞いていきたいと思います。 

すべての人への福音

マタイによる福音書 28章16~20節 牧師 常廣澄子    本日はマタイによる福音書の最後の部分から、御言葉を聞いていきたいと思います。皆さまもよくご存知のように、マタイによる福音書の冒頭は主イエスの系図で始まっています。1章の半分くらいはずっとカタカナの名前が続いています。そしてこの福音書には幼少期を除いてイエスの御生涯が書かれています。その御生涯の終わりの部分ですから、本来ならば死で終わりのはずですが、イエスの御生涯は死で終わりではなかったのです。復活されたこと、さらには復活後のことにまで及んでいます。