新約聖書

使徒とされた者

聖書は古代から人類の歴史に深く関わってきた書物ですが、その中でもこのローマの信徒への手紙ほど大きな影響を与えた文書はないと言われています。アウグスティヌスをはじめとする初代教父たちや、宗教改革期のカルヴァンやルターたちを経て、現代の多くの神学者たちに至るまで、キリスト教の発展に寄与した人たちはほとんどこの手紙から大きな神の霊感を受けました。

人を裁くな

ルカによる福音書からのメッセージが続いておりますが、本日箇所は、6章37節から42節までです。先に、本日箇所に至るまでの流れを簡単に確認してから、本日箇所に入りましょう。イエスさまは、十二使徒選びの後、平地に下り、本格的な伝道に入られましたが、集まって来た、大勢の弟子たちを見て、「あなたがたは」と、親しく呼びかけながら「幸い」とされる人々、「不幸」とされる人々について教えられました。すなわち、「今貧しい人々、今飢え渇いている人々、今泣いている人々、あなたがたは、人の子すなわち、このわたしを信じ、従うゆえに、今は苦しんでいるかも知れない、しかし、天では大きな報いがあり、御国に招かれ、そこに、あなたたちの居場所が用意されている。そのため、あなたがたは『幸い』である。」逆に、「今富んでいる人、満腹している人、笑っている人は、先の人々のように、やがて受けるであろう幸いを、すでに受けてしまっている、だから、あなたがたは『不幸である。』」と言われたのでした。

生と死を支配される方

ドミティアヌスが皇帝崇拝を強要し、キリストを信じる者たちはいろいろな面で迫害を受けました。敢然とそれに立ち向かった者たちは当然処罰されたり、殉教したりしたのです。そういう厳しい状況の中で、ヨハネは、「(9節)わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。」と自己紹介しています。まず、自分は、アジアの諸教会にいる主を信じる者たちの仲間であり兄弟であることを言い表し、苦しみの中で忍耐しているのはわたしもあなた方と同じですと言っているのです。「その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」というところは、「私ヨハネは、主を信じるがゆえに今苦難を受けています。しかしそれは主イエスのお苦しみの一端に与かっていることであり、私は神のご支配の中にいます。私はイエスによって備えられた神の国の民としていただいたことを喜び、その希望によって今ここで忍耐をもって過ごしているのです。」ということではないでしょうか。

成長させてくださる神

多くの人は旅を通して目新しい風物や自然に接すると、そのことを書き記すものですが、パウロはたくさんの手紙を書いているにも関わらず、そういう描写がどこにもないことは大変不思議です。その理由として考えられるのは、パウロにとっては一人でも多くの人に主の救いを語り伝えること以外には関心がなかったのかもしれません。さらに、当時の地中海が、今のようにクルージングのような楽しみや遊びの観点で見るものではなく、船が難破することや座礁すること等、危険な航海の思い出や恐ろしい体験につながったこともその一因かもしれません。

神の知恵

パウロは繰り返し、人が信仰を持つのは神の力によること、信仰はこの世の知恵によらないこと説いています。実際イエス・キリストの十字架は、知恵ある人間の目には愚かなことでした。多くの人は、もしイエスが神の子であるならば、そのような弱い惨めな屈辱的な姿はあり得ないことだと考えたのではないでしょうか。ですからキリストへの信仰を持つためには躓きとさえなっています。しかし、世間の人々が愚かだと思うこの出来事の中に、神の知恵が秘められているのだとパウロは言うのです。そしてそれは霊の目が開かれてこそ分かるものであって、どんなにこの世の知識が豊富で弁舌や理屈に長けていようとも、またそういうこの世の知恵や、この世の権力を握っているような支配者であろうとも理解されないものなのだと語っています。そのことをパウロはここで、この十字架の言葉は救われる者にとっては神の力であり、たとえようもない神の知恵なのだと力説しているのです。

敵を愛しなさい

冒頭は「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と始まりますが、この文脈は、“とは言うけれど”、という意味合いで、前の段落を受けつつも、一旦それを保留しながら、本日箇所の教えに入ろうとしています。ではここで、勧めの言葉を伝えようとしている「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、主イエスさまが、開口一番、目を上げ語りかけた弟子たちであり、今は貧しくされ、また、飢えを覚えている人々、そして悲しみの中に置かれている人々のことです。しかし、「あなたがたは『幸い』だ、なぜなら、あなたがたが『その日』、すなわち御国に招かれるとき、また、この世においても、神のご支配の中に招かれるとき、幸いな者とされる。」という祝福の言葉をいただいている人々のことです。

時を支配される方

お読みいただいた「ヨハネの黙示録」の「黙示」というのは、先日もお話ししましたように、「啓示」とも訳すことができる言葉です。隠されているものの覆いが取り除かれて現れるという意味です。これはイエス・キリストについて解き明かしているのです。そして「(1節)この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」であり、それを、「(2節)ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。」ものです。

神の力によって

神は人間の知恵ではなく、世の人々が軽蔑するような福音の宣教という愚かな手段によって、信じる者を救われるのだということを学びました。それが神の知恵なのだということです。私たちが福音を聞いて信じたのは、私たちがこの世の他の人々より頭が良かったり、優れていたからではありません。つまり信仰は人間の知恵によるのではないということです。また知恵だけでなく、家柄や身分や学歴とかそういったものが他の人に勝っていたというわけでもありません。神が私たちを愛して救いを与えてくださるという福音の言葉を聞いて、ただ素直にそれを信じたことによるのです。

平和の道に導く方

今夜お読みいただいた聖書個所は、マリアの賛歌に続いて「ザカリアの賛歌」と言われているところです。これは「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という言葉で始まります。この最初の言葉「ほめたたえよ」という言葉がラテン語でベネディクトゥスと言いますので、このザカリアの賛歌は「ベネディクトゥス」という題で歌われるようになりました。

喜びにあふれる旅

クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのろうそくが4本灯り、本日は神の御子イエス・キリストの誕生を祝う喜びの礼拝です。日本を含む地球の北半球ではクリスマスは冬の寒い季節にあたりますが、この季節は冬至に近くて夜の闇の時間が長いですので、光にあふれたクリスマスは何か明るく暖かいものが感じられます。実際、神が人間世界においでになったという到底考えられないくらい驚くべき出来事、感謝してもしきれないほどの素晴らしい出来事なのです。