旧約聖書

神の計らい

詩編には150編の詩があります。あるカトリックの修道院では、この詩編を1週間で読み通しているそうです。詩編を何回も何回も読むことによって、神の恵みや御業をますます深く理解していくのではないかと思います。今朝お読みした詩編73編は、今の時代を生きる私たちに共感するところもあり、とても読む人の心に訴えてくる詩です。

神への希望

この詩編は1節に、賛歌、ダビデの詩とあります。しかし、必ずしもダビデが歌った歌というわけではなく、周囲から攻め寄せてくる多くの敵を前にして小国ユダヤの王の立場をとって歌った詩人の歌にダビデの名を冠したものだと考えられています。その前のところに「指揮者によって、エドトンに合わせて。」とありますが、エドトンというのは、宮廷楽人の一人の名前で、エルサレム神殿にはじめて聖歌隊を作った人だと言われています。彼の名前がその後聖歌隊そのものを指すようになっていったようです。

神はわが助け

「神はわがやぐら」という讃美歌があります。(新生讃美歌538番、日本基督教団讃美歌267番)これは宗教改革者マルティン・ルターが詩編46編を基にして作ったものです。力強い神の約束が荘厳なメロディーと調和して、誠に重みのある讃美歌です。この曲は、ルターが1517年10月31日に95か条の提題を掲げて改革の火ぶたを切ってから10年くらいたった頃に作られました。当時の教会は罪が赦されると銘打って贖宥状を乱売していましたが、ルターは修道士として厳しい修業をしながら必死で神に祈り、徹底的に聖書を研究し、終に人が義とされるのは律法の行いではなく信仰によるのだ(ローマの信徒への手紙1:17、3:28)ということを見い出し、この提題を掲げたのです。それからのルターは、神が求められる本当の信仰、本当の教会を求めて苦闘していきます。しかし、その戦いはなかなか終わらないばかりか、ますます悪化していきました。ルターはこの間に重い病気にも見舞われ、その頃はヴィッテンベルク城の奥にかくまわれ、孤独な境遇の中にいたのです。そして何よりも、ドイツ皇帝(カール5世)とローマ教皇とが互いに提携してルターに対抗していました。彼の身の上には、大きな危険が迫っていた時期です。この曲が作られた背景にはそういう状況がありました。そのことを思いますと、歌詞の一つ一つがルターの神への信仰を歌っていることがわかります。この讃美歌は人生の深い淵から発せられた純真な信仰告白であり、神の栄光を歌う賛美です。

神の約束

この箇所は「信仰の父アブラハム」と言われているアブラハムの生涯の中でも、最も大切な場面です。父テラ、妻サライそして甥のロトと共にカルデアのウルを出て(創世記11:31)、「行く先を知らずに出発した」(ヘブライ人への手紙11:8)アブラム(99歳の時にアブラハムと命名:17:5)に対して、神が契約を結ぼうと語りかけたことがここに記されています。

主に望みをおく人

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。旧約聖書の時代、バビロンに捕囚となったイスラエルの民は、紀元前587年から半世紀にわたって、苦難の生活を強いられていました。そこでは人々はもはや自分たちは神から見捨てられたと絶望し、希望がありませんでした。しかし神はイザヤにイスラエルの民を解放させようとしていることを伝えました。 そして神の言葉のゆるがない約束を語るのです。(6~8節)どんなに美しい花であっても、間もなく朽ち果てる。人間もそれと同様である。希望を抱いたとしてもその根拠はない上に、一時的なものに過ぎない。本当の希望というのは、我々を裏切らないものでなければならない。神の言葉こそが永続する希望であると。イザヤは、バビロン捕囚からの解放を確信します。