聖書

教えと悪霊払い

ルカによる福音書からの福音のメッセージを、続けてご一緒に聞いております。現在は、イエスさまのガリラヤ伝道の初期に起こった出来事が中心となっておりまして、本日は、カファルナウムでの伝道からのメッセージです。  本日箇所冒頭、31節、32節には「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」とあります。この二節にわたる紹介の言葉は、イエスさまのカファルナウムに下ってからの伝道がすでに始まっていて、順調なスタートを見せている、そのような印象を受けます。  といいますのも、実はその前の場所、ご自分がお育ちになったナザレでの伝道は、実に辛い結果となってしまい、そのナザレを後にしての、カファルナウム行きだったのです。そこでの伝道が順調なスタートが切れたことは、ここを読むわたしたちにも、喜びと安堵感を届けてくれます。

キリストの復活

イースターの喜びを感謝いたします。イースターは、キリストが苦難と死を過ぎ越して復活されたことを記念してお祝いする喜びの日です。キリスト教の初期にはキリストが復活された週の初めの日、つまり毎週毎週日曜日の度にキリストの死と復活を覚えて礼拝を捧げていたのですが、2〜3世紀頃に通常の礼拝とは別に、ユダヤ教の過ぎ越し祭の頃に一年に一度、盛大に祝われるようになりました。ところが当時は日付がばらばらであったようで、325年のニカイア公会議で話し合い、春分後の最初の満月の次の日曜日をイースターとするということが定着していったようです。

神の御手の下で

今朝はペトロの手紙一の最後の5章から聞いていきたいと思います。まず「(1節)さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。」ここには長老と書かれていますが、私たちの教会では執事として選ばれている方々とか、教会制度の中で牧師と協力して教会のいろいろなことに責任を持つ方々のことを言っています。しかし私たちはバプテストの群れであり、万人祭司という精神がありますから、教会の中の誰彼を区別するのではなく、すべての信徒に向かって語られている個所として読んでいくのが良いと思います。

イエスのガリラヤでの伝道開始

ルカによる福音書から、標記の通りの説教です。イエスさまがガリラヤで伝道を開始され、さらにナザレに来ての伝道の様子を伝えている箇所です。なお前回は、バプテスマ直後に“聖霊に満ちて”ヨルダン川から帰られた後、さらに荒野に行って“霊”によって悪魔からの試練を受けられた、その出来事からの説教でした。

イエスの荒野での誘惑

イエスのバプテスマの記事はルカ福音書には、わずか2節(3章21節22節)のみですので、罪のないイエスがなぜ、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられたのか、その経緯を、マタイ福音書3章13節~17節から確認しますと、イエスがヨハネの元に来られ、ヨハネにバプテスマを願い出られた、そのとき、「あなたがなぜわたしから」と、ヨハネはイエスのバプテスマを思い止まらせようとしました。しかしイエスはそれを振り切って、「今は止めないでほしい。正しいことはすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げ、ヨハネはこれに従ってイエスにバプテスマを施したのです。

バプテスマのヨハネの働き

神による救済史を、三つに分けることがありますが、それは、「イスラエルの時」(旧約聖書の時代)、「キリストの時」、そして「教会の時」の三つです。そこにバプテスマのヨハネが登場したのは、「イスラエルの時」から「キリストの時」へ移ろうとしているその中間、すなわち“キリストの先駆者”(橋渡しをする者)として登場しました。

魂をゆだねる

新共同訳聖書ではこの段落のタイトルは「キリスト者として苦しみを受ける」となっています。お読みした4章12節から5章の終わり辺りまでは、キリスト者への迫害が感じられるような言葉が連なっているのです。今、私たちの社会全体を覆っているのは新型コロナウイルスという災いで、これは今世界に生きているすべての人間に共通の災害です。しかしこの個所では、「愛する人たち」と呼びかけていますから、この手紙の宛先(1章1節参照:ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地にいるキリスト者)の上に何らかの試練が及んでいたことがわかります。

神の恵みに生きる

神は私たち人間との関係を正しくすることを願っておられます。人が私をどのように評価しようとも、どんなに私が自信を無くして落ち込んでいようとも、死にたいくらい辛い時でも、神は言われるのです。「私はあなたのすべてを知っている。」「私はあなたを受け入れている。」「私はあなたを愛している。」「私はあなたと共にいる。」と。イエス・キリストへの信仰を持つなら、私の内にキリストが生きていてくださいます。私たちが真実でなくても神は絶えず真実なお方です。コロナ禍の中で大変厳しい毎日ですが、インマヌエルの主と共に生きていけますようにと願っております。

少年イエスの言葉

ルカによる福音書2章41節~52節から、少年期イエスのみ言葉を中心に「恵みのみ言葉」をお届けいたします。因みに、御子イエスさまについての幼児期から少年期までのエピソードを伝えております福音書は、このルカ福音書のみです。それは本書冒頭に記されておりますように、“順序正しく書き記す”ということに加えて、イエスさまの幼児期から少年期への成長の中に、旧約の時代から新しい時代への大きな移り変わりの出来事が確かにあったことと、さらにこのことが伝えるメッセージを読者が読み取ってほしい、との願いが込められています。

低きに下る神

この詩編は、イスラエルでは祭り、特に過越しの祭りの時に歌われていました。イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちと過越しの食事をなさった時も、その始めにこの詩編113編が歌われたであろうと考えられています。113〜114編は過越しの食事の前に、115〜118編は食事の後で歌われたそうですので、マルコによる福音書14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」とあるのは、おそらく115〜118編であろうと言われています。