フィリピの信徒への手紙

足ることを学ぶ

私たちは今、新型コロナウイルス感染防止にために、人と人ができるだけ接触しないように注意しながら暮らしています。心でどんなに親しく思っていても、人に対して身体を通して温かい交わりを表わせないのは、とてもさみしく残念なことです。誰とも会えずに孤独感を強めておられる方もたくさんおられると思います。でもそんな時に「お元気ですか」と一本のお電話があったり、「手作りマスクです。どうぞお使いください。」と封筒に入ったマスクが届いたりすると、暗い心がいっぺんに明るくなり、元気が出てきます。今朝は、獄中で苦しい立場にいたパウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物を受け取って感謝していること、またそれと同時に主にある自分の信仰姿勢を語っている箇所を見ていきたいと思います。

思い煩うな

フィリピの信徒への手紙の最後の章です。フィリピの教会は、パウロがヨーロッパに渡って最初に作った教会であり、それも迫害の中で形成されたものでしたから、パウロにとってはかけがえのない教会でした。パウロはフィリピの信徒を深く愛していましたので「私の喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼びかけています。この冠は国王が冠る権威の象徴としての冠(ディアデーマ)ではなく、競技や競争で勝った勝利者に与えられる冠(ステファノス)です。パウロはフィリピの信徒たちを福音の戦いに勝利した者と見ていたのです。そして当時は主の福音に敵対する者が多くいましたので、彼らに対して「主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。ここには信仰に堅く立つ秘訣が示されています。それが「主によって」(主にあって)という言葉です。これはキリストを媒介としてという意味です。私たちは自分の力だけでしっかり信仰に立つことは難しいですが、キリストを信じ、その死と復活の命に与ることによって、力強く生きていくことができるのだということです。これは、コロナウイルス危機の中に生きる私たちの信仰への励ましでもあります。

本国は天にある

フィリピの信徒への手紙 3章17〜21節パウロはあちこちで、神に受け入れられるために必要なのは律法を完全に守ることである、という誤った律法主義を批判しています。救いを得るには律法をしっかり守ればよいのだという律法主義はキリストの恵みの福音とは全く相反する考えです。しかし、パウロがここで「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです(18節)。」と語っているのは、そういう律法主義者ではなく、キリストを信じて教会の仲間になっている人たちの問題なのです。そういう人たちの中に、キリストの十字架、その愛と赦しを否定するような生き方をしている人たち、キリストの十字架を無用とするような生き方をする人たちがいたことが問題となっています。